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短編小説 霧に呑まれて

 陽がカラマツ林の向こうへ落ちて、薄暗くなった。緩やかな下り坂を小走りで降りている。
 片桐夏子は、白い花柄のワンピース姿だ。美しい刺繍の花が散ったフレアは、夏子の動きでひらひらと軽やかに揺れる。
 夕暮れ時の林の中は、虫の音が賑々しい。街路灯は明るさを増し、周縁を丸く照らす。
「涼太ったら。追っかけても来ない」
 夏子は後ろを振り向いて独り言ち、屈んで両手を膝に置いて息を整えた。
 別荘を飛び出してからずっと走っていた。全身が汗ばんで湯気が立つようだ。
「どうして来ないのよ」
 二人が、夏子の祖母の別荘で、週末を過ごすのはひと月振りだった。
 東京の9月の末はまだ残暑が厳しく、標高950mの別荘地は気候が2ヶ月ほど進んでいる。昼間の暖かさと夜の気温差が大きい。
 日が傾くと霧が立ち、夏子の足元を漂う。
「私は悪くない。涼太が、私の作ったホウレン草と帆立のグラタンを……美味しいのに、自信あったのに」
 足元の小石を蹴った。涼太とテニスへ行くときは自転車でこの坂道を使う。
 下り坂を、スピードを出して降りて行く時、小さな石でもハンドルを取られて危険だからと、涼太は石を見つけると、自転車を停めて道端へ蹴りだしていた。
 夏子は小石を、道の真ん中めがけてもう一度蹴った。霧が揺れて波立ち、石ころの姿を隠した。
 振りかえっても人の気配はない。
「どうして迎えに来ないのよ」
 再び下り始めるが、走るのはやめた。このまま行くと人家のない深い森を通る。
 今はまだ、別荘の庭の灯りが所々に見える。戻るなら今が一番安全だった。
「来てくれたら許します。いいえ、許してもらいます。帆立を食べられないことを忘れていた私が悪いの」
 カラマツの枝がざわざわと揺れ、林の中から風が吹いてきた。立ち込めていた霧が吹き払われ、周りの景色が戻った。
 夏子は目の前の道の先の暗闇を見つめた。一瞬、身震いをして後ろを振り返った。誰も来ない。
 坂を惰性で下る。
「私に何かあったらどうするのよ。知らないから。婚約したのだから責任あるでしょう」

 先刻、涼太は2口目の帆立を口から吐き出し、化粧室に駆け込んだ。驚いて追いかけたが、目の前で扉が閉まった。
 大きな音が立ったので、涼太が怒って閉めたのだと思った。ショックを受けた夏子は家から飛び出した。
 今考えると、窓が開いていたから、風でバタンと閉まったのかもしれないと思える。
 久し振りの二人きりのディナーだった。
 夏子は、仕事を終えてからやってくる涼太のために買い出しに行き、いくつかの料理を作った。
 材料の中に、市場で手に入れた活きの良い帆立は、グラタンにした。
 幼い頃、帆立にあたって体調を崩してから貝類を食べていないということを、すっかり忘れていた。
「悪かったと思っているけど、迎えに来てくれないのは、許せない」
 風が止んだ。道がカラマツ林から天然の森へ入ると、虫の声が途切れ静かになった。  
 草叢から白い霧が這い上がる。足首を隠していただけの霧が、あっという間に白いドレスの小花にまつわり始めた。
 まもなく道路は、暗い霧の川となった。
「やだ。涼太」
 夏子は後ずさり振り返る。道の両脇に立つ木々を目印に駆け戻った。
 長く緩やかな上り坂だが、すぐに息があがり走れなくなった。
 立ち止まると、霧が後ろから夏子に覆いかぶさる。
「浜坂のおば様の家が近いはず」
 カラマツ林と森の間の、脇道を少し入ると知り合いの浜坂家の別荘がある。
 夏子はこの辺と思った所で、文字が消えた道標を見つけて本道から入り込んだ。
 浜坂は祖母の友人だった。一人暮らしで通年この地で過ごしている。
「おば様、なんでも笑い話にしちゃう方だから」
 夏子は考えただけで気が楽になり、辺りを見廻した。あるはずの門灯を探したが、霧のせいか目に入らない。
「もうお歳だから点け忘れているのかもしれない。着いたら、涼太に電話して迎えに来てもらおう。少しだけはすねて、そしてちゃんと謝る」
 考えると簡単に仲直りが出来るような気がした。
 それにしてもそろそろ門とアプローチが見える筈だが、背の高い木の影がうっすら視野に入るだけだった。
「こんな所で何をしている」
 いきなりの大声に夏子は悲鳴を上げた。
「女の子か。一人なのか」
 二の腕をつかまれた。振り払おうとしてもつかんだ手は離れない。
 自分の心臓の拍動で喉が締め付けられる。
 紺色の服を着た男は、片手で自転車をささえている。
「名前は」
 よくよく見ると警官のような格好だ。恐る恐る尋ねた。
「お巡りさんですか」
 男はうなずくと手を離した。ほっとして夏子は座り込み、滲んだ涙を手の甲で拭った。
「道に迷ったか」
 濡れた道端に両手を突いて大きく呼吸をした。動悸が治まると息が楽になった。
「大丈夫かな。どこに住んでいます?」
 警官は自転車の両立スタンドを立てて夏子のそばにしゃがみ込む。警官を目の前にして、安堵のため息を大きくついた。
『迷子じゃない。家から出てきたの』
 涼太に対する怒りが再燃した。先程とは比べ物にならないほど強い。
 腹わたが煮えくり返るという言葉を聞いたことがある。きっと今の自分の腹のことだ。ざわざわと熱い。吐き気もする。頭の芯がチリチリした。
「逃げてきました。お巡りさん、助けてください」
『こんな目にあわせて、もう許さないから』
 夏子は、別荘に男が侵入してきた、怖くて逃げたが道に迷ってしまった、と説明した。
 霧はますます深く方角の見当もつかない。少しは姿があった外灯も見えない。
 夏子の前髪から雫が頬へ伝う。白いフレアはじっとりと湿気って膨らみを失っている。
「家はどちらですか」
 祖母の名と住所を言うと、警官は知っているのか頷いて、携帯電話で報告し始めた。
「森の中で片桐家の娘さんを保護しました……。別荘に侵入者があって逃げ出したそうです……。応援お願いします……。武器を持っているかどうかは不明です……。私は娘さんを署へ送ります……。了解」
 警官は自転車のスタンドを外し、夏子についてくるように促した。
「パトカーが2台、出動します。名前は片桐さんでいいのですよね。署までは15分位ですが歩けますか」
「片桐夏子です。大丈夫です」
 霧で周りの音が遮断され、自分の声がくぐもって聞こえた。湿り気を含む大気は息苦しさを感じるほどだ。
 警官は自転車灯をつけたが、かえって霧が際立つのかすぐにスイッチを切った。
 警官と並んで歩かなければ、どこへ向かっているのかわからなかった。自信ありげに自転車を押していたが、一度、前輪が側溝にはまってしまった。それからは自転車の先を道案内にそろりそろりと進む。
 道らしきところを下っていけば、中央通りへ出る一本道だ。間違いようがない。
 何も視野に入らない中を、ゆっくり歩く時間が夏子を冷静にしていった。吐き気だけが残っている。
 パトカーが二台も出動して、騒ぎが大きくなると涼太はどんな反応をするだろう。 
 そもそも迎えに来ない涼太が悪いと怒るのは夏子の勝手で、こんな目にあったのも自業自得なのだ。
 警官のそばを歩きながら『どうしよう、どうしよう』と両手を固く握りしめ、呪文のように繰り返した。
「よし」
 警官の声が聞こえて顔を上げると、真っ先に中央通りのカフェのネオンがぼんやり見えた。
 警官は左へ折れた。普段気にしたこともない警察署の赤い電灯が霧に膨らんで巨大に目に映る。
 署内へ入ると、眩しさに眼をしばたたいた。慌ただしい言葉のやり取りが耳に刺さる。
「片桐家へ救急車手配しました」
 電話応対をしていた警官が夏子を見ながら、帰署した同僚へ報告した。
「けが人が出たのか」
「いいえ。トイレの中で若い男が意識不明で倒れていたそうです。唇や口の中が腫れ上がって」
 夏子は声にならない声を上げた。
「さっきの話は嘘。その人、私の婚約者。帆立が……」
 そこまでをやっとの思いで言うと夏子は気を失った。

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