『戦う民意』

「戦う民意」は2018年に亡くなった元沖縄県知事である翁長雄志の著書である。

 翁長氏は2014年、沖縄の総意とされる「辺野古移設反対」を掲げて、保守派、改革派の垣根を越えたオール沖縄で沖縄県知事に立候補。前職の仲井眞氏を10万票の大差で破り県知事に就任した。この本では、「辺野古移設反対」まで至った経緯や、政府との対立、メディアでは公表されなかった出来事などについて翁長氏本人によって語られている。

まずは、普天間基地移設問題について簡単に整理する。

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1945年、沖縄戦のさなかに米軍は宜野湾村の一部凋落を強制接収。日本本土攻撃用の基地を建設した。これが「普天間飛行場」の始まりである。

1951年、終戦後日本はサンフランシスコ平和条約を締結。沖縄は日本の独立と引き換えにアメリカの施政権下に置かれることとなった。当時は東西対立が激化しており、朝鮮戦争が繰り広げられたため、米軍は極東最大の軍事施設であった沖縄に基地を建設するため強制的な土地収用を進めようとしたが、地主たちは反発。やがて「島ぐるみ闘争」と呼ばれる大規模な反対運動に発展し、土地を売り渡さなかった。

1995年、三米兵による少女暴行事件が起こる。この事件以前にも米兵による事件・事故は勃発していたが、95年の暴行事件を機に県民の怒りが爆発し、米軍基地の返還・閉鎖を訴える運動が高まった。同年に宜野湾市で開かれた県民総決起大会では、85000人もの人が集まり、保守と革新は初めて抗議行動をともにした。

1996年、日米両政府は「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置し、沖縄の米軍基地の整理・縮小、統合を検討し、代替施設が5~7年以内に運用可能となれば、普天間基地が全面変換されることで同意された。

1998年に行われた沖縄県知事選では、稲嶺恵一氏が普天間の県内移設を認めた上で「代替施設の運用は15年以内に限る」ことを知事選の公約に掲げて当選した。稲嶺知事は「飛行場の軍民共用」「15年の使用期限」を条件に移設候補地として名護市辺野古沿岸域を表明し、当時の名護市長も同意。代替施設が辺野古沖に建設されることがこの時点で一旦決定した。

2001年の9・11同時多発テロにより、アメリカは米軍再編に向けた動きを加速させる。しかし、2004年に普天間基地所属の米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落し、普天間の早期閉鎖を求める声が急激に高まった。当時那覇市長であった翁長氏も県外の移設先を探し、東京都に属する住民のいない硫黄島を提案するが、胃がんを患いを交渉を断念。

2006年、日米両政府は「再編実施のための日米ロードマップ」を発表。このロードマップでは稲嶺氏が条件として挙げた「15年の使用期限」が消し去られていた。それまで移設を容認していた翁長氏は公然と政府を批判するようになった。

2009年、「普天間基地の県外、国外移設」を公約として民主党政権が誕生した。しかし、基地問題をめぐる政府の発言は二転三転とし、鳩山内閣は最終的に移設先を辺野古周辺とする日米共同声明を発表。

2010年の沖縄県知事選では日米合意の見直しと普天間基地の県外移設を公約に仲井眞氏が再選。

2013年、仲井眞氏が県外移設の公約を翻し辺野古沖の埋め立て承認をする。

2014年、オール沖縄で「米軍普天間飛行場の辺野古移設反対」を掲げた翁長氏が仲井眞氏を10万票の大差で破り当選。翌年に仲井眞氏の辺野古沖の埋め立て承認に法的瑕疵があるとし承認を取り消した。

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以上が翁長氏の普天間基地の辺野古移設のための埋め立て承認取り消しまでの経緯となる。

 少し気になった部分は「基地問題は沖縄県知事の仕事の8~9割を占める。」と翁長氏本人が書き残しているところである。貧困率、離婚率、県民所得、学力、第三次産業に傾いた産業構造など沖縄には様々な問題点が多くある。確かに、基地問題は沖縄の深刻な問題の一つであるが、沖縄県行政のトップである知事が仕事のほとんどが基地問題であると考えているのはあまりにも基地問題に重きを置きすぎているように感じた。

 辺野古沖の埋め立て承認をした仲井眞氏について書いた「沖縄を売った男」も以前、友人の勧めで読んだ。2つの本を読んだ上で言えることは、仲井眞氏はリアリストであり、翁長氏はロマンチストであるように感じた。「基地反対!」と叫ぶだけでは現状は何も変わらないと考え、交渉を行った仲井眞氏と、歴史から県民の感情を第一に動いた翁長氏。どちらも沖縄を想うがゆえの行動であることは理解できるが、政治家として支持したいのは仲井眞氏であると個人的には思った。

 米兵によって多発する事件事故で県民の不満感情が爆発したことや、民主党政権の見通しの甘さで沖縄県民を落胆させたこと。様々なことが重なり、2014年の沖縄県知事選挙は基地問題が勝敗を左右するほど大きな争点になったように感じた。


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