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ウィルビーマヨネーズ

この国では「マヨネーズ好き」の人を「マヨラー」と呼ぶ。
まだ若かった頃の平成の時代、確かに時代を写しだす言葉の一つである「マヨラー」

「シノラー」「アムラー」「ハマダー」の流れを汲んでいる「マヨラー」という言葉は果たしていまだ存在しているのか。

「シノラー」はフワちゃんが次の世代へタスキをつなぎ、「アムラー」は渋谷の街から消え、「ハマダー」に関していえばそもそも存在していたのかマユツバである。
平成の言葉遺産「マヨラー」だが、その言葉から感じさせる異常性を語らずをえない。
何にでもマヨネーズをかけて味変をするという行為に、心の歪みを感じてしまう。

「焼きそば」「たこ焼き」にマヨネーズをかける行為は、現在では市民権を獲得し、特別な行為とは思われないが、筆者が幼少期の昭和の頃は、ソース味の食べ物にマヨネーズをかけることは日常的ではなく、裏メニューのような、特別を感じさせる行為であり、特別を感じる味であった。
それが平成の世には、「マヨラー」という言葉が生まれ、何にでもマヨネーズをかける人もそこまで変人扱いを受けることもなくなってきている。
変人扱いは、受けてない。
しかし、そこに何か異常性を感じてしまうのだ。
料理や食材が本来持ち合わせている味を、マヨネーズで上書きし、何を食べても同じ後味にする。
この行為の異常性が何をもたらすのか。
この歪みをテーマに、短いお話が出来ないかと考えている。

締め切りは8月末、時間がない。
焦りを感じながら、縁もゆかりもない土地でパソコンを叩いている。

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