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第108回 巨星墜ちる。

万寿4(1027)年は、摂関家関係の人がたくさん亡くなった年でした。
4月に東宮の第一皇子親仁親王が3歳で着袴(ちゃっこ:現在の七五三にあたる)を迎えて喜んだものの、5月14日に、高松方で19歳で比叡山に出奔した顕信が34歳で亡くなりました。父の道長としては我が子の3人目の喪失でした。そして奇しくも同じ34歳の鷹司方の妍子も病に臥します。
妍子は一人娘禎子内親王がこの3月に新しい東宮妃となってほっとしたところでした。

6月13日には、高松方明子の異母兄である前権大納言・源俊賢が69歳で亡くなります。道長にとっては義兄に当たる人でした。
この俊賢に関しては興味があり、これから研究しがいがある人です。晩年は彰子の中宮大夫や太皇太后大夫を務めて近侍していました。頭脳明晰で「一条朝の四納言」と呼ばれていました。彰子が信頼していた一人です。
俊賢自体は960年生まれ、969年に安和の変で父・源高明(光源氏の最有力モデル)が左大臣から大宰府に流され、数え10歳の俊賢も同行した様です。兄二人が出家しましたが、俊賢は父が失脚した政界にデビューします。処世術は「常に最高権力者に密着する事!」でした。父の轍を踏まず、権力者を敵に回しませんでした。しかしへりくだるのはなく、正しいと思う事は反抗しないまでに行動しています。

9月14日には次女妍子が34歳で病死します。道長は3人目の娘の死に取り乱し、「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取りすがったと言われます。
その道長もとうとう病に臥します。
死の数日前には、背中の腫物、糖尿病に苦しみ、阿弥陀如来と自分の手に5本の糸を結び付け、12月4日、62歳で往生しました。「この世をば」の栄光、そして倒した政敵の事が思い浮かんだでしょうか。

道長が遺した国宝『御堂関白記』が近衛家の陽明文庫で5千円(お茶菓子付き)で公開されるとあって勿論見に行きました。
クライマックスで、係の人が「それでは道長様にお会いして頂きましょう!」と言ってガラス戸が開けられ、『御堂関白記』が生で来ていた人々の前に出ました。何も障害が無い空気だけの本物、道長の書いた字を見られたのはやはり感動ものでした。
道長が亡くなった同じ日、よく仕え、彰子中宮にも一役買った、藤原行成(三蹟)も56歳で亡くなっています。

道長が亡くなって、香子はまた彰子の元に呼ばれたでしょうか?記録はありません。(続く)

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