第89回 忠平の暗躍
藤原忠平は時平、仲平の弟です。法皇派について次兄仲平を抜かして21歳で参議に抜擢されたもののすぐに叔父に譲って、前参議として政治的圏外におり、道真左遷の時には流罪にならずに済みました。すべて宇多法皇の計画通りでした。
雌伏していた忠平はまず妻の順子(道真の姪)と共に、「道真怨霊」の噂をとにかく広めます。それも露骨ではなく。
延喜7(907)年秋、28歳の忠平は、宇多法皇に従って嵐山の紅葉狩りに行きます。そして百人一首にも採られている歌を詠みます。
「小倉山 峰の紅葉葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむー心があるなら、もう一度の御幸(みゆき)があるまで、散らずに待っていてほしい。
これは宇多法皇の息子、醍醐天皇に向けて奏上した歌です。完全におべっかの歌ですが、醍醐天皇はどう思ったでしょうか?
醍醐天皇としては、自分を裏切って法皇派についた忠平をいまいち信頼できませんでした。それはずっと続きました。だから「何、調子のいい事言ってんだか」という感じだったでしょうか?ただ、そんなに美しいのなら行ってみようという事で醍醐天皇も御幸したそうですが。
そして頃良しと見て、翌年正月、忠平は29歳で参議に還任します。これは大正解でした。次兄の仲平が翌月に参議になったからです。あるいはその情報を掴んで先手を打ったのでしょうか?
その年は夏、日照りが続き、更に10月、同じ参議の藤原菅根が落雷の被害にあって53歳で亡くなります。菅根は道真左遷の時に、宇多法皇が内裏に入ろうとした時、邪魔した人でした。人々は改めて「道真怨霊」を感じます。
時平は実は繊細な人でした。この怨霊に悩まされ病となり、延喜9年、39歳の若さで亡くなります。長男の保忠はまだ20歳。
ここで藤原氏の氏の長者は忠平となります。本来なら次兄の仲平だったのですが、弟の忠平の方が先に参議になっていて先輩という事で忠平になったのです。還任のタイミングはバッチリだったのです!
忠平は更に権中納言に昇進し、勢力拡大に務めました。
後世、忠平は「善人」とよく言われます。しかし善人には2種類あります。1つは本当に善人の方。もう1つは「善人そうに見えて実は腹黒」(私自身ドキッ?)です。忠平は後の行動からみてどうも後者の様な感じがします。(続く)