第30回 『源氏物語絵巻』の製作
保延5(1139)年8月、得子の産んだ躰仁(なりひと)親王が生後三か月で東宮に立てられた後の12月、璋子の産んだ四ノ宮雅仁親王(後の後白河天皇)が13歳で元服し、そして従姉で24歳の源懿子(よしこ)と婚礼しました。璋子は藤原公実の末娘で同母の姉が三人いますが、その2番目の姉が藤原経実(師実の三男)と結婚して懿子を産んだのですが、父親の暴力(DV)が激しくて、すぐ下の妹が源有仁(輔仁親王の子)の妻となって子供がいなかったので養女になって源姓を名乗っていたという事です。
年は違いましたが夫婦仲は良く、4年後皇子(後の二条天皇)を儲けますが、直後に懿子は疱瘡で亡くなったという事です。
さて、翌年正月、傷心の璋子の御所へ雅仁親王が懿子が挨拶にやってきました。実は璋子と雅仁親王は今様が共通の趣味で、特に雅仁親王は喉が割れるほど歌い狂うという感じで、鳥羽上皇は「帝の器ではないな」と言っていました。鳥羽上皇は璋子の子をもう天皇にはしたくないという意図がありましたが。
璋子のお気に入りの今様の歌い手を雅仁親王が連れて帰ってしまい、璋子が「早く返しておくれ」と手紙を送ったという話があります。
養父・源有仁の提案だと言って、懿子はこの頃流行している物語絵巻から、人気の『源氏物語』の絵巻を作りましょうと、璋子に提案します。
54帖と長いので、璋子を含めて仲の良い6人が責任者となって絵巻製作を仕切る事になりました。久しぶりに璋子は明るくなります。
6人とは璋子・雅仁親王・懿子、それから璋子のずっと味方をしてくれている令子内親王(白河法皇の皇女)、雅仁親王の姉の統子内親王(上西門院)、崇徳天皇の皇后聖子にも声をかけ、有仁の妹で冷泉殿と言われるメンバーが決定しました。
それぞれ財力がありますから、当代人気の絵師を集めました。
宋との貿易でまた財を成している平忠盛が、すかさず全員に金・銀の箔で飾られた美しい料紙を献上しました。
「こんな美しい紙に筆を下ろすなんて、よほどの能筆でないとできませんね」
楽しげに製作は進みました。54帖を6等分し、文章とその場面の絵が交錯します。
何か仲間外れの感で拗ねている得子をなだめるために、2月25日から鳥羽上皇は得子と熊野詣でに出かけます。
そして約ふた月で、絢爛豪華な『源氏物語絵巻』は完成したものと思われています。しかし大半が消失したのは残念ですが、残っているものを見てもその美しさ、意匠に凝った姿勢が分かります。
例えば光源氏が薫を抱く場面は、最初薫は赤ちゃんらしく両手を挙げていましたがそれだと明るいなるのでわざと腕を服の中に入れて哀愁を出しています。(X線撮影で分かったそうです)
また最近、原色を復活させたものも公開され、今の渋さとはまた違った鮮やかさを見せてくれます。
ですが、何人かは、これが源有仁の発案であり勧めと聞いて穿(うが)った見方をしいていたでしょうか?即ち、『源氏物語』は光源氏が父の后藤壺と密通し、冷泉帝を産む話があります。璋子が養父の白河法皇と通じて崇徳天皇を儲けたのは「公然の秘密」でした。この製作を璋子にやらすとは・・・白河法皇に存在を抹殺された輔仁親王・源有仁父子の意趣返しと思ったでしょうか?しかしそれを越えて国宝『源氏物語絵巻』は永遠の輝きを放っています。(続く)