第36回 後白河法皇(2) 母璋子
院政というのは非常に独裁的な色が強いです。摂関政治の藤原道長とて、本来は天皇が主ですから限度は心得ていました。しかし院政は天皇の父あるいや祖父。権力を振るい放題でした。白河法皇はその頂点です。
祇園の女御の場合も無実の家来を島流しとして得た女性です。女御は夫の事をどう思ったでしょうか。そして子がいない女御(本当はいたのだが表面上は妹?)のために養女として従兄弟の末娘璋子が可愛いというので五歳で貰ってきました。そして猫っ可愛がりに溺愛しました。
白河法皇はもちろん『源氏物語』を知っていて、光源氏が幼い若紫を手元に置いて成長して妻にしたというのは分かっていて、それを地で行った感があります。忠臣の忠実(ただざね)が面会を申し出ると法皇は会えないと言います。後で聞けば、幼い璋子の足を懐に入れていて、今動けないというのです。法皇と璋子がただならぬ関係にあるのは皆が知っていると忠実は日記に書いています。
ここで現代の女性作家は璋子に冷たいです。璋子が誘惑しただとか、節操が無いとか小説で酷評されています。しかし弁護をしますが五歳で貰われてきて善悪の区別もつかず接触されていては、璋子は被害者なのではないでしょうか?『源氏物語』では若紫がある朝起きて来ない、という事で読者は処女を失ったのだなと暗示されます。
いつ璋子が法皇から女にされたかは分かりません。しかし璋子にとって法皇は全てでした。日本で一番権力を持ちそして優しく、璋子にとって父であり、兄であり恋人でした。
法皇もこのままではさすがにいけないと思ったのか、璋子が11歳の時、忠実の息子忠通と婚約させます。しかし忠実は延引に延引を重ねこの結婚を無しにしてしまいます。実は忠実は、白河法皇との間に子まで成した師子という女性を妻に頂いたのです。(平忠盛のように)
二代続けて「古妻(ふるめ)」を貰う事を特に妻師子が猛反対したものと思われます。
ここで白河法皇は孫の鳥羽天皇が15歳の時に17歳の璋子を入内させます。それで諦めれば良かったのですが・・・璋子の方も法皇にマインドコントロールされてました。璋子は何と鳥羽天皇との初夜を拒否したと記録にあります。白河法皇が恋しかったのです。精神錯乱になった璋子を手当てしたのは百人一首でも出てくる行尊という高僧です。この行尊は、道長から嫌がらせをされ退位した三条天皇の子孫で、更に皇太子を辞めさせられた小一条院敦明親王の孫ですから、世の中は不思議なものです。
結局、白河法皇と璋子は密会を重ね、第一皇子が生まれてしまいます。この訳ありの子は、心を鬼にして仏門に入れるべきでした。密通の子はたいがいそうなっています。しかしそうはせず第一皇子が五歳になった時、白河法皇は鳥羽天皇を譲位させ、崇徳天皇となるのでした。
後白河天皇を懐妊した時は、白河法皇は70歳を超えていて鳥羽天皇も今度は我が子だと思ったようです。
結局白河法皇は天罰を受ける事もなく、恐らく胃癌?(大量の下血があったというので)77歳で崩御します。璋子29歳。
しかしこれから45歳で亡くなるまで璋子の後半生は大変でした。
全てを知った鳥羽上皇の仕返しが始まるのです。次々と妃を貰うのはまだいいですが、わざと璋子に仕えている女房に手を出していきます。次々と孕んで退出する女房を璋子はどう思っていたでしょうか?
ここで崇徳上皇が父に諌言します。ただでさえ良く思っていない鳥羽上皇と崇徳天皇の関係はどんどん悪化します。そして騙し討ちの様に崇徳天皇は譲位させられます。
子どもたちの将来を案じて璋子は45歳で亡くなります。崇徳上皇27歳。雅仁親王(後白河)19歳。臨終の時には鳥羽上皇も駆け付けたといいます。いろいろ愛憎があった訳ですから。
さっき確認のためにWikipediaで確認してたら崇徳上皇の両親は「白河天皇、藤原璋子」とありました!(一応鳥羽天皇と書くべきじゃ・・・)
おまけの話を。西行という崇徳上皇より一つ年上の元・武士が璋子に失恋して出家したという説があります。(瀬戸内寂聴説。私も賛成)
どれだけ美貌だったかという事ですが、百人一首の「なげけとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな」-月を見て、あの人を思うと涙が流れるーという相手は璋子だったかも知れませんね。