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第53回 崇徳院の悲劇(1)

保元元(1156)年7月11日、乱に敗れた崇徳上皇は源為義などに支えられしばらく東山を逡巡しますが、食糧もない逃避行、上皇は為義らと別れて投降を決意、剃髪をして仁和寺に出頭します。同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するためでした。しかし法親王は鳥羽殿に避難していてしかも取り成しを拒否。崇徳上皇は愕然として仁和寺に留まります。朝廷から武士が多数来て拘束状態となります。

15日には上皇の身を案じた西行が仁和寺を訪れます。かつての仲間、北面の武士が多数いたので西行は崇徳上皇と涙の対面をします。
23日に崇徳上皇に、讃岐へ廃流との宣旨が出ます。上皇はかつて平城上皇と嵯峨天皇が争った薬子の変でも平城京に留まった古例からせめて畿内だと思っていました。天皇あるいは上皇の配流は、遠く奈良時代の淳仁天皇以来約400年ぶりだという事です。

讃岐へは重仁親王の母である兵衛佐と少数の女房だけがお付きを許されました。重仁親王とは今生の別れ。そして正妃である聖子は京に留まらなければなりませんでした。「われても末にあはむとぞ思ふ」と思った女人は聖子だったでしょうか?

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