第32回 ウラン情報、アメリカに拡散
デンマークの著名な科学者、ニールス・ボーアは1939年1月7日、会議に出席のため、息子たちとアメリカへ船出しました。
4日前にオットー・フリッシュから見せて貰った「ウランの核分裂」の論文はしっかりと控えを取っていました。フリッシュからは、まだ清書してなく、発表するまでは誰にも口外しないでほしいと言われ、ボーアももちろん快諾しました。
アメリカへの船内は時間があったし、やはりとても気になる事だったので、ボーアは同行していた若いユダヤ系のレオン・ローゼンフェルトと黒板まで持ち出して一緒に議論しました。ローゼンフェルトがひどく驚いた事は言うまでもありません。
一方、1月13日、デンマークのフリッシュの元に父から電報が来て、収容所から解放され、母と一緒に叔母のリーゼ・マイトナーがいるストックホルムに逃れたという核分裂の発見以上に嬉しいニュースがありました。
1月16日、ボーア一行はニューヨーク港に着きました。ボーアの尽力でアメリカに亡命できたフェルミ夫妻が出迎えに来ていました。ボーアは嬉しかったけれど、まだ核分裂の事は話してはいけないと思いました。
しかし何とローゼンフェルトに口止めするのをうっかり忘れていました。ローゼンフェルトがその日の内にアメリカの知人たち、特にプリンストン大の若手の教授たちに話してしまい、核分裂の情報は一気にアメリカに拡散されたのでした。(続く)
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