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第87回 紫式部1014年死亡説?

香子が宮中を去った長和2(1013)年12月10日、15歳の敦康親王の婚礼が行われます。お相手は頼通の正室隆姫の妹です。姫の父具平親王はもう故人でしたが、摂関家の後継者頼通が相婿となってくれる訳ですから、養母の彰子としても安心だったでしょう。敦康親王は亡き母定子の薫陶を受け継ぎ聡明な皇子に成長していました。

さて年が明けた長和3年正月20日頃から彰子が病になったという情報が入ります。彰子は27歳でずっと壮健だったのですが、見舞いにも行けない香子は下旬に清水寺に参詣します。そこで意外な人物と遭遇します。
伊勢の大輔でした。あの「八重桜」の受け取りを香子が譲り、大喝采を浴びた年下の女房です。あれから7年。伊勢の大輔は27歳ほどですがもう結婚して宮仕えを辞め、子供もいます。
聞けば大輔もやはり彰子の病気平癒の参詣に来たという事。香子はしばし旧知の人と話をして歌の贈答をします。
香子「心ざし君にかかぐる燈火(ともしび)の 同じ光にあふが嬉しさ」
大輔「世々を経る契りもうれし君がため ともす光にかげをならべて」

「君」というのは2人にとって同じ主人の彰子です。彰子を思う2人の気持ちが共通して今日会った嬉しさを詠っています。

彰子はやがて回復しますが、ここから香子の消息が分からなくなっています。そしてこの年を紫式部死没とする学者もいます。
根拠としては、その年の6月、父為時が越後守を娘婿信経(香子の従兄でもある)に譲って辞職して帰京している事があります。余程の事がないと途中で放り出して帰って来ないのではないかというのです。ただ、為時ももう60代後半の筈なので健康面かもしれません。

まあ最近でもしばらく姿が見えないと「コロナになったのかな?」とか更にずっと見えないと「亡くなったのかな?」なんて言われたりしますので。
ただ、香子の影がその後も時々見えたりして、彰子がほんとに落ち込んだ時には行ったりしています。
私が信奉する角田文衛先生は、1031年1月説を主張しておられます。3月に娘賢子が喪に服しているからです。
1014~1031年の間に亡くなったというところです。生年も970(私もこの説に賛成。為時が播磨に居て明石で生まれた可能性があるので)~978年と開きがあるので、謎めいているところも楽しいですね!

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