第114回 師輔の後継者争いと『伊勢物語』の成立
天徳4(960)年5月4日の右大臣師輔(53歳)の死後、8月22日人事異動が行われ、右大臣には亡き時平の次男顕忠(63歳)が任じられました。この方は余り有名ではありませんが、とにかく道真怨霊が祟るのを怖れ、常に謙虚で大人しく自邸に籠る方でした。だから5年後の68歳までの長命を保ったと思われていました。すでに長兄保忠や弟敦忠もこの世になく、時平流の男系は歴史から消えていきます。(女系の方で時平流はしたたかに生きていましたが)
師輔の男子はたくさんいましたが、最初の正室盛子の産んだ三人が有力でした。長男の伊尹(37歳)、次男の兼通(36歳)、三男の兼家(34歳)です。
8月22日の人事で伊尹は参議に登場します。また和歌にも造詣が深く、『百人一首』では「あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかなー私の事を可哀想だと言ってくれそうな人は思い浮かばず、きっと私は空しく死んでいく事に違いないのだなあ」-この歌を紫式部は『源氏物語』の空しく死んでいく柏木の参考にしています。
次男の兼通は美男だったけれど、やや陰気な人だったと伝えられています。だからでしょうか、伊尹は同じ陽気の三男兼家を優遇しています。
兼家は女性関係が派手な人ですが、不思議な事に(たまに見かけますが)情熱的に恋するのだけれど、その人が子供を産んでしまうと急に熱が冷めて別の女を求めるという傾向がありました。最初の妻時姫が子を産むと、今度は『蜻蛉日記』の作者が美貌で歌が上手いというと熱を上げ、半ば強引な形で妻とするのですが、道綱を産むと早速別の女に・・・という感じで女性たちを苦しめました。でも天性の明るさと腹黒さ(父師輔に一番似ている?)で栄華を掴まえました。(道長の父でもあります)
その年の9月、内裏は焼亡し、編纂されたばかりの『後撰和歌集』や『伊勢物語』は灰燼に帰し、下書きを元にまた造り直されたといいます。前述した様に「陽成院」の名が明記されたのもこの時なのでしょう。(亡き師輔は神経を尖らせていましたが、伊尹は気に留めていなかった様です)
また『伊勢物語』も再編され、翌年(961年)から今の形で流布されたとあります。(講談社『日本全史』) (続く)