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第58回 中宮大夫・藤原国経

業平(54歳)が源融(57歳)再出仕の説得に行って、結局うまくいかなかった元慶2(878)年5月4日、業平と同い年の女婿・藤原保則が出羽権守になり現地に向かう事になりました。坂上田村麻呂以来、蝦夷との付き合い方をうまくやるために強化されたのです。業平の一人娘美子とその息子・清貫も同行します。保則の着任は成果があり、8月以降に蝦夷の投降が相次いだという記録があります。

5月8日、高子は中宮となりました。中宮は後年、天皇の一番高い位の后となりましたが、この時は母后も含めての総称の感じです。
大夫には前年度蔵人頭にも任じられた高子の異母兄・国経(51歳)が任じられました。国経は長男ながら、卑母のため基経の庶兄扱いでした。凡庸でもありましたが。宝塚の『花の業平~忍ぶの乱れ』では基経の明るいお坊ちゃん的な弟という設定にされていました。

国経といえば、「太郎国経」として『伊勢物語』でも基経と共に、芥川まで高子を取り戻しに行きました。しかし性格的には大人しく、ともすれば対立しかねない基経と高子のいわば緩衝剤的な役割を果たしていました。
人の良さが不幸にも晩年、若く美しい妻を甥の時平に奪われてしまいます。(谷崎潤一郎『少将滋幹の母』)

国経は高子が皇太后となり、やがて廃后となるまで大夫を務めていますから、関係は良好だったのでしょう。また業平とも良好で、業平の長男棟梁(むねやな)が亡くなった際、その娘を養育しています。後に妻としますが、前述のように奪われて、81歳で失意のまま亡くなります。(続く)

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