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第15回 紫式部が幼い頃、母が死亡?

紫式部の母は夫の任地・播磨で969年に長女、970年に次女(式部)、972年に帰京してからその翌年に男児(惟規ーのぶのり)を産んだ後、亡くなってしまったというのが定説になっています。
つまり式部が4歳の頃、生母が亡くなったという事です。『源氏物語』にはそういう訳で母のいない子がたくさん登場します。
まずは主人公の光源氏。3歳で母・桐壺の更衣を亡くし、生涯その面影を追い求めます。
光源氏の嫡男夕霧も、生まれてすぐ母・葵の上は怨霊に殺されてしまいます。玉鬘も同じく母・夕顔を3歳の時に怨霊に殺されています。
若紫も母を幼い時に亡くし、祖母が育てていました。
「若菜」の女三宮も母を幼い時に亡くし、「宇治十帖」では中の君を産んだすぐ後に生母が亡くなって、父親の八の宮は妻の姪に手を付けて浮舟を儲けますが認知しなかったという下りもあります。
こういう訳で、式部が幼い時に生母が亡くなったというのが定説であると思っていたのですが、2000年11月、全く別の説を書いた小説を読んで驚きました。

それはアメリカ人の日本文学の教授・ライザ=ダルビー(1950年生)です。新聞で世界10か国で同時発売して、日本のしかも関西の大学に講演に来るというのです。もう23年も前の事なのですね。私は仕事の休みを取ってまず書店で『紫式部物語ーその恋と生涯』(光文社)を買い求め、行きの阪急電車で貪り読みました。すると冒頭からしばらくして「私が15歳の時に母が亡くなりました」という紫式部の独白があったのです。
会場についてダルビー女史は流暢な日本語で『源氏物語』の講演をしました。そして終わって司会者が「何かご質問がある方はございますか?」と言われたので私は勇気を持って挙手し、質問を開始しました。
「いろいろな文献だと、紫式部が幼い時に母親が亡くなっているとなっていますが、先生の著書を読むと15歳と書いてあります。どうしてそう書かれたのでしょうか?」
すると壇上のダルビー先生はマイクを持っておもむろに話し始めました。
「それは、私の夢の中に紫式部が出てきて、そう書いてくれと言ったのです」
私は目が点になり、頭が真っ白になりましたが、「有難うございました」と言うのが精いっぱいでした。

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