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第115回 東宮元服と安子の心配

応和3(963)年2月28日、14歳の東宮憲平親王は元服し、添い臥しとして、同じく14歳の昌子内親王(亡き朱雀上皇の皇女)が妃として入内しました。
従姉弟同士の婚礼で本来は目出度い事ですが、憲平親王には数々の奇行があり、昌子内親王も怖れていました。

例えば、父・村上天皇(38歳)からの手紙の返事に男根の絵を書いたり、番小屋の屋根に登ってずっと歌ってみたり、また毬をずっと1日中、目の色を変えて蹴り続けたりと・・・村上天皇も母后である安子(37歳)の心配は尽きませんでした。生後僅か2か月で皇太子としてしまったのですが、今更辞めさせる訳にも行きません。

昌子内親王は気味悪がって、里邸の三条第に帰ってしまい出て来なくなりました。
師輔亡き後、九条流を仕切っている東宮の外伯父の伊尹(40歳)は長女の懐子(やすこ?:19歳)を言い含めて、妃として差し出しました。
心配していた安子ですが、やがて7回目の懐妊をしました。
しかし翌年4月24日、選子内親王(後の大斎院)を出産したものの、産後の肥立ちが悪く、5日後亡くなってしまったのです。さぞ、東宮の心配をしていたでしょう。結局、天皇との間には3皇子4皇女を儲けました。
特に東宮の弟、為平親王(13歳)は英邁であり、将来を期待していました。次の東宮をという声も高かったのですが、いろいろな妨害に会い、それは成りませんでした。

村上天皇はその父の醍醐天皇と並んで『源氏物語』の桐壺帝のモデルではないかと言われています。そして皇后安子はちょっと恐い弘徽殿の女御に。
(続く)



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