第3回 朱雀院(3)
延長8(930)年。東宮寛明親王(後の朱雀天皇)は8歳、弟の成明親王(後の村上天皇)は5歳になりました。
6月26日、その夏は雨が降らないので清凉殿で会議をしていた時、急に黒雲が出てきて、何と雷が清凉殿に落ちたのです。2名の公卿が焼死し、それを見ていた醍醐天皇(46歳)は衝撃の余り寝込んでしまいました。道真の怨霊のせいだと誰もが思ったからです。
醍醐天皇は29年前に17歳の時、道真に謀反ありという事で大宰府左遷への決定した事を今更の様に悔いていました。しかしどうしようもありません。実は道真怨霊には仕掛け人がいたのです。それは何と左大臣忠平(51歳)でした。兄の時平を追い落とし追い詰めるために道真の姪を妻としていた忠平は影で道真怨霊を煽っていたのでした。
本当は醍醐天皇も忠平の事を疑っていて不仲でしたが、もうそうも言ってられません。9月22日、寛明親王への譲位が行われ、朱雀天皇となり、忠平に後見を頼むと言って醍醐上皇は29日に崩御しました。
病弱ながらも朱雀天皇は15歳となり、熙子(ひろこ)女王(年齢不明)を女御に迎えます。この熙子女王というのは亡き東宮保明親王の皇女であり、保明親王の母でもある皇太后穏子としてはここで皇子が生まれれば万々歳です。周囲は余り期待していないようでしたが。
やがて承平・天慶の乱という平将門・藤原純友の乱が起こり、京の人々を震撼させますが(あまり分かっていず恐れていなかったという説もあり)何とか治まります。
天慶3(940)年、2月に平将門を東国で誅した後、15歳の成明親王の元服式が盛大に行われました。
ここで目鼻の効く中納言藤原師輔(忠平の次男。道長の祖父)が自慢の長女安子(14歳)を4月に成明親王の妃としました。病弱な朱雀天皇ではなく成明親王の方に照準を合わせたのです。
翌年2月、師輔と張り合う大納言藤原実頼(忠平の長男)は娘・慶子を朱雀天皇の元に入内させます。(続く)