第11回 藤壺は昌子内親王?
朱雀院、冷泉院と実在の天皇が続きましたが、今回は藤壺の女御(中宮)について考えてみたいと思います。
天皇の妃にして、義理の我が子からの思慕があったとはいえ、密通し、生まれた子を天皇として醜聞(スキャンダル)にもせず、秘密を守り通したある意味、高潔で頭が良い女性。女三宮の様にボロは出しません。
「先帝の皇女で皇后」になった女性は紫式部が生きていた時点で平安時代では二人しかいません。嵯峨天皇の皇女で、叔父淳和天皇の皇后となった正子内親王と、朱雀天皇の皇女で冷泉天皇の皇后(中宮)となった昌子内親王です。
そしてやはり紫式部としては同時期に生きておられた昌子内親王を藤壺のモデルとして考えたフシがあります。
それは寛和2(986)年、昌子内親王が太皇太后となった時、大進として藤原為頼(紫式部と仲の良かった伯父)が身近に仕えたからです。式部が970年生まれとすると、昌子内親王は37歳。式部17歳。何度かは近くに上がって話をした事があった可能性があります。そして昌子内親王には大江雅致が仕えており、その娘は御許丸(おもとまるー後の和泉式部)がその時点では9歳(978年生まれと推定)。利発で美しい少女で紫式部としてはその時にライバル意識を感じたでしょう。(『紫式部日記』には清少納言ほどではないにせよ、あまり好意的な表現はしていません。私の敵じゃないわ的な)
14歳の時、その時東宮だった同い年の憲平親王(後の冷泉天皇)の妃になったものの、その奇行におびえ、内親王は三条の邸に籠りがちだったといいます。「三条の邸」が自邸というのは『源氏物語』にも登場します。
昌子内親王は「資質淑慎で后妃の徳あり」そして仏教に深く帰依していたと言われます。高徳な感じの皇女だったのでしょう。
それを紫式部は頭はいいけれど、愛欲に苦しむ女性に描きました。まあこれも式部の好意と見れば、物語の中で二人もの素晴らしい男性(桐壺帝と光源氏)に愛され、子まで儲けたのですから、式部には罪悪感はない?
昌子内親王の両親もすでに亡くなっているし、後見もいないので文句を言われる事はないという計算もあったでしょう。
子のいない昌子内親王は、叔父村上天皇の皇子・永平親王(この方も奇行で有名)を養子とし、また夫・冷泉天皇の女御超子が早世したのでその皇子、為平親王・敦道親王を養っています。そして内親王の身近に和泉式部がいたので二人の皇子がその魅力に悩殺されたのも歴史の流れでした。
昌子内親王は長保元(999)年12月1日、50歳で崩御します。その頃、紫式部は結婚して、女児(賢子)を儲けています。しかし内親王の死の約1年半後に夫を亡くし、本格的に物語に執筆に向かい、光源氏が恋する藤壺の構想をし、そのモデルとして高雅な昌子内親王を想定したのではないでしょうか?
※だいぶ前ですが、私は単独で、昌子内親王の岩倉陵に行った事があります。京都の山深い所で、そこで私はある者と目が合いました。何と山猿だったのです。紐でくくられているかと思ったら何もありません!刺激して爪で引っ掛かれたらえらいことなので、そっと静かに退散しました。(笑)
(続く)