第36回 河内源氏にまた内紛の恐れ
「清和源氏」が一般的ですが、私は「陽成源氏」説に賛成ですので、これも呼ばれている「河内源氏」(あと摂津源氏・大和源氏)でいきます。
源氏は個人的には優れた人が多かったのですが、義家以降は内紛が絶えませんでした。(義家vs弟の義綱:義綱が義家の長男義忠を殺害したと言われます。この後も頻繁におこります。一番有名なのは頼朝が義経を殺害にまで追い込む)
璋子が亡くなった翌年正月、河内源氏の棟梁、為義(51歳)は久々に検非違使に復帰します。為義は失敗が多く(家来が乱暴狼藉、また犯罪者を匿うなど)外されていたのです。しかし左大臣頼長に仕えた事で復活したのです。
同じ頃、東国にしばらくいた為義の長男義朝(24歳)が帰京し、正室に熱田大宮司藤原季範(57歳)の娘・由良姫を迎えます。由良姫は翌年男子を産んでいます(頼朝)。由良姫は上西門院(統子内親王)に仕えていたという説もあり、頼朝も上西門院に仕えます。そして平治の乱の時は上西門院から助命の動きがあったと言われます。
ところで為義と義朝はなぜか以前から不仲でした。義朝が帰京してから更にその傾向は強まりました。
だいたい為義には非常に多くの男子があり(分かっているだけで21人!)、特に次男で義朝とは異母の義賢(年齢不詳)が美男で、容姿が大事な帯刀先生(たちわきのせんじょう)にも選ばれていて可愛がっていました。そう言えば、義賢の子、木曾義仲も粗野だけれど美男という伝承がありますね。更にその子、義高も美少年で13歳で殺されますが、幼い大姫(頼朝の長女)は生涯(と言っても20歳までですが)義高を慕い続けました。
義賢は主人の頼長から男色の相手にさせられた事が、頼長の日記(台記)に書かれています。
後に、義賢は関東に行き、その時また関東にいた義朝と悶着を起こし、義朝の長男義平に討ち取られています。当時2歳の義仲は、畠山重能や斎藤実盛の計らいで、乳父の中原兼遠の腕に抱かれて、信濃国木曾谷に逃れたのでした。(続く)
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