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第29回 太皇太后昌子内親王崩御ー藤壺のモデル?

香子が娘賢子を産み、道長の娘彰子が入内し、中宮定子に待望の第一皇子が生まれた長保元(999:1月13日改元)年12月1日、大江雅致宅で、太皇太后昌子内親王が崩御しました。50歳
『源氏物語』でも「藤壺」の存在ははなはだショッキングなものです。
先帝の皇女にして、桐壺帝の女御から中宮。そして義理の我が子から愛されて、不義の子を産み、その皇子は冷泉帝となって即位する。

紫式部(香子)がこれを書いたという事は、そういう事は当時でもあった?または完全な絵空事と解釈していたのでしょうか?
よく「モデル」を詮索するなんて無粋だという方もいらっしゃいますが、私は専門が国文ではなく国史なので、史実との繋がりを追及してしまいます(笑)
さて、昌子内親王とは、朱雀帝が譲位してから生まれました。この朱雀帝という方は、菅原道真怨霊を怖れて誕生から3歳まで部屋の中で、燈火をともして育てられたというので、日光にも当てなかったのでさぞ不健康に育ったでしょう。
案の定、病気がちで、朱雀天皇が24歳の時、藤原師輔らが一計を企て、健康的な弟・村上天皇(21歳)に譲位させました。
朱雀上皇28歳の5月5日、妃の凞子(ひろこ?)女王という方が皇女を産んで亡くなりました。この皇女が昌子内親王でした。ほどなく5月24日、村上天皇の女御安子(師輔の長女)が憲平親王を産み、7月には早くも東宮に立てられました。
朱雀上皇はもちろん一粒種の昌子内親王を鍾愛しました。しかし30歳で出家し仁和寺へ行きます。(このあたりも『源氏物語』と同じ)そして仁和寺へ遷ってから4か月後、崩御されるのでした。
数え年3歳で両親を亡くしてしまった昌子内親王。周囲は東宮憲平親王の妃として朱雀院に報いようと思ったのでしょう。

しかし東宮憲平親王は大きな病を抱えていました。今でいうなら精神異常というのでしょうか、例えば番小屋の上に登ったり、蹴鞠を一日中蹴っていたり、父村上天皇への返事の手紙に男根を描いたりと奇異な行動が目立ち、父の村上天皇、母の皇后となった安子。そしてやがては外祖父として政権を握る師輔も案じました。けれど容姿は美しい憲平親王を東宮から辞めさせる事はしませんでした。
それは憲平親王は実は第二皇子で、第一皇子の外祖父藤原元方(南家)の怨霊のせいであるともっぱらの噂でした。
東宮が14歳で元服した時、昌子内親王が妃となります。しかし昌子内親王は気味悪がって近づかなかったと言われます。
仕方なく、伊尹や兼家が自分の娘に言い含めて女御とし、相手をして皇子を産んでいます。
その内、兼家の長女超子は若死にしたので、昌子内親王は遺された3人の皇子の内2番目の為尊親王と、3番目の敦道親王を引き取り養育します。(実際の世話は侍女がやっていたでしょうが)
昌子内親王には大江雅致がよく仕え、その娘・御許丸(おもとまる)も美しく利発だったので内親王は女童として側に仕えさせます。これが後の和泉式部で為尊・敦道良親王との恋もこの頃素地があったのですね。

とにかく先帝の皇女にして中宮となるという『源氏物語』の藤壺に当時の人々は、昌子内親王を思い浮かべたでしょうか?

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