第8回 璋子(たまこ)が白河法皇の養女に。
昨日、実父がどうので藪蛇になりましたが、現在でも実父は違う人だったとかいう記事がネットであったりします。今はDNA鑑定があり、まだ判断できますが、昔は憶測の域を出ず、大変だったでしょう。小説でも「暗夜行路」「華麗なる一族」でも当事者は、父親は誰?と苦しんでいます。それは寝取られた男の方もです。
さて、長治(ちょうじ)2(1105)年正月、白河法皇(53歳)は同い年の従兄弟・公実の数え5歳になる末娘がとても美しいという評判を聞きます。
「それでは子のない祇園の女御の養女にちょうどよい」と言ってその姫を貰い受ける算段をします。
祇園の女御が養女を欲しがったという伝承もありますが、前述した様に女御には島流しにあった前夫の間に娘がおり、(表向きは年の離れた妹としていましたが)やはり好色な白河法皇自身が欲しがったのだと思います。(最初はもちろん娘と扱っていましたが、その美貌に法皇は後に一線を越えてしまうのですが・・・)
その5歳の姫は大変美しく、やがていろいろな貴人を悩殺していきます。相当魅力があったのでしょうね。法金剛院に残る肖像画を見ても、晩年でも美貌の程が分かります。
さて新造の大炊殿に春、姫を引き取り、著袴(現代の七五三の様なもの)をして法皇と女御は祝います。
祇園の女御はこの時、予感していたでしょうか?法皇の道ならぬ愛が、やがて保元の乱という大乱を招いてしまうという事を。
この年11月。後朱雀天皇の皇女だった祐子内親王が68歳でひっそりと亡くなります。母は敦康親王(定子が母)の娘で若くして亡くなっています。内親王は生涯独身でしたが、女房には蜻蛉日記の作者、紀伊(百人一首:音に聞く高師の浜の)などがいます。(続く)