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第40回 伊勢の斎宮との密通(2)

斎宮恬子内親王と夢の様な一夜を過ごした次の日、業平は翌日には尾張に行かねばならないので、今夜も絶対に逢瀬をしようと思っていました。昼は狩りに行っても、「心はそらにて」(原文)心待ちにしていました。
するとどうでしょう、斎宮寮の長官も兼ねている伊勢の守が夜宴会を開いてくれたのです。そしてそれはいつ終わるとも知れない宴でした。
「無粋な奴め」
人知れず「血の涙」(原文)を流して夜も明けようとする頃、斎宮の方の女房から杯が来てその受け皿に、「かち人の渡れど濡れぬえにしあれば」-歩いて渡る人でも濡れぬほどの浅い江でありますから(本当に浅いご縁でしたね。江と縁を掛ける)ーと書いてあります。
業平は、松明の燃え残りの炭で、同じ受け皿に下の句を書き継いで女房に渡します。
「またあふ坂の関は越えなん」-また逢坂の関を越えてお会いしましょうー
こうしてまもなく夜が明けたので、業平は尾張へ旅立って行きました。

そしてこの「一期一会」で恬子内親王は身籠ってしまったのです。
その年は何とか暮れましたが、翌年2月、妊娠4か月ともなれば体形が変わって内親王の懐妊は極秘に知られる事となりました。
2月、内親王の母、紀静子は急死します。恐らく事実を知って仰天し、処女であるべき斎宮が懐妊などとは未曾有の不祥事としてどうなる事かとショック死したのでしょう。
何とかこれを隠蔽せねばならない、都で何か大事件を起こして目を逸らせよう。紀家の家来たちは思案した筈です。

その頃、都では最高位の太政大臣良房が病に臥せ、弟の右大臣良相が仕切っていました。良相の息子常行(ときつら)と業平は昔から懇意で知って知らぬふりをしたのでしょうか?

周囲は、かつて内親王が伊勢に来た時の守で当時、散位として京にいた高階岑緒に相談します。結局6月頃、内親王は男児を出産し、岑緒は息子茂範の子としてその男児を貰い受けたのでした。
その男児は高階師尚となり、その子孫は高階貴子として中の関白家に入り、伊周・中宮定子・隆家などを産んで更にその子孫は皇統に入っています。また別の系統から保元の乱後の苛烈な処理をした信西、南北朝時代の高師直などが出て歴史を彩っています。

しかしもしこの情事が事実だとして、普通は不祥事を隠すものなのに、暴露しているのでしょう?『伊勢物語』第69段の末尾にはとってつけた様に「斎宮は・・惟喬親王の妹」としており、実名を言ってる様なものです。
これはこれから何度も紹介しますが、陽成天皇の名を貶める一環なのです。
良房の養子で為政者の基経は自身にとって邪魔な陽成天皇を廃しました。しかし臣下が天皇を廃するのは不遜な事件ですから、基経の子孫・周囲は陽成天皇を徹底的に悪く伝えました。「狂疾の帝」-家臣を殺し、残虐であったと。現在でも書籍・youtubeでそれは拡散し続けています。私も大学で角田先生の論文を読むまではそう思っていました。
しかしどれだけ悪を塗布しても綻びは出ます。
陽成天皇が本当は善人であったという証拠として、
(1)日照りの時に、邸の池の水を開放した。(917年『日本紀略』)
(2)下賤の者と仲が良かった。(これは欠点として描かれていますが、暴れん坊将軍の様に庶民と仲が良かったのではないでしょうか)
(3)盲者を町屋に集め保護した。→陽成院の崩御後は盲者が多く慕って参拝したといいます。(『東大寺雑集録』)
が挙げられます。そして陽成天皇本人だけでなく、その母高子は淫乱(55歳の時に護持僧と密通したとして皇太后を廃されています)、叔母恬子内親王も密通。更に祖母の明子は長年鬱病で引きこもりだったのをいい事に『今昔物語』では夫・文徳天皇の前で妖怪と嬉々として交わり、現在人気の『応天の門』でも淫靡な姿が描かれていて驚きました。

高子・恬子内親王の密通を暴いて、陽成系を貶めるーこれが『伊勢物語』の正体であり、目的であるーそう気づいた時、私は戦慄しました。
しかし歌と文章の美しさが『伊勢物語』を悲恋の文学作品に昇華しました。
この謎に満ちた物語を更に分析する必要があると私は思います。(続く)


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