生活すること、生きること
『自分の「こころ」が人柄や性格をつくりあげている。誰もがそう信じている。でも、周りの人間がどう向き合っているのかという、その姿勢や関わり方が自分の存在の一端をつくりだしているとしたら、どうだろうか。僕らは世界の成り立ちそのものを問い直す必要に迫られる』(うしろめたさの人類学. p11【ミシマ社 ; 2017】)
松村圭一郎さんの『うしろめたさの人類学』。本書の冒頭を読んでいて、ふと思い出したのは、僕の師匠のお話。医師である師匠は、往診先の患者宅で、奇妙な光景に遭遇する。
その日は、『昨日から呼吸がおかしい』と患者の家族より連絡があり、急ぎ患者宅へ向かったそうだ。患者は長らくパーキンソン病を患い、寝たきりとなっている高齢者である。診察をするまでもなく、既に下顎呼吸状態にあり、死が差し迫っていることは明らかだったという。そこへ誰だが分からない男性がいきなり部屋に入ってきて 『おい、まだ生きているか、しぶといやつだな』 と言ったそうだ。
ふと視線をあげると、死にゆく患者の布団の周りでは、おもちゃで遊ぶ無邪気な子供たちが、そしていつもと変わらず台所に立つ患者妻の姿があったという。突然部屋に入ってくるなり、死にゆく患者に声をかけたその男性は、彼の幼馴染だった。
病態生理学的な医学・生物学的観点からみた「ヒトの死」と、リアルな生活という観点からみた「ヒトの死」。そこには決定的な差異があるように思える。「ヒトの死」という現象がどう認識されていくのかを考えたとき、医療者にとっての「ヒトの死」は、なかなかに特殊な概念なのかも知れない。
死にゆくヒトへの感情。それはどこにあるのだろうか。医療者の立場だと、どうしても医学・生物モデルで死を捉えてしまう。あるいは自分が目の前の患者よりも健康である、という後ろめたさの中に、“医療ができる事とは何か” を考えてしまう。そこに倫理性が宿ることもあれば、時に過剰な医療をもたらすこともある。しかし、生活の中の「死」は、患者とその周囲の人間たちとの関係性によって構築されている。
『感情は「こころ」にあるのではなく、モノのやりとりのパターンのなかに「表示」される』(うしろめたさの人類学. p63【ミシマ社 ; 2017】)
——おい、まだ生きているか、しぶといやつだな。
それは死にゆく幼馴染へ「よく生きたな」と、むしろそう言ったメッセージだった。死にゆく患者と看取る家族、そして友人。そこで交わされるメッセージ、それは『交換』というよりはむしろ『贈与』に近い。感情というものがそこには確かに表示されている。脱感情化が進む現代社会において、忘れかけていた何か大切なものが、この風景の中には含まれているような気がした。
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