星迷う空の下で願う夢は遥か

【第1話: ペンローズの三角形】

 言葉にしないと何も伝わらない。そんなふうに言われてしまうと、僕は少し疲れる。言葉にしたところで何も伝わっていないことは多々あるし、それは時に誤解を生んでしまったりする。

「ねえ、優樹(ゆうき)。不可能性の最も純粋な形……。そんな形を知ってる?」

 朱に染まる駅のプラットホームで、与野 遥(よの はるか)はそう言った。僕らは一緒にいても、何も話さない時間の方が長かったりする。遥も僕も、口数が少ないというか、お互いに自分から積極的に話をするような性格ではなかった。

 だから、僕らの会話は唐突に始まることが多い。断続的な文脈に、最初は驚きもするのだけれど、そこで交わされる言葉がこぼれ落ちていかないように、一つ一つ、そっと胸の中にしまっておきたいと願う。

「もし、そんな形があるのなら、手の平に乗せて、じっくり眺めてみたい……かな」

 僕がそう答えたときには、駅のアナウンスと共に、急行列車がホームに滑り込んでいた。茜色に光り輝く列車は、そのまま僕らの横を減速せずに通過していく。列車がはねのけた空気は、遥の前髪を揺らし、彼女の空色のワンピースを揺らし、そして僕の頬をかすめていく。

「ペンローズの三角形」

 遥はそれだけ言うと、真っ白な腕を上げ、僕に “さようなら” というように、細い手を小さく振った。彼女の肩から下げられた小さなショルダーバックが、西陽に反射して、まるで夕景に溶け込んでいくようだ。

「またね」

 ”言葉にしなくても、なんとなく分かりあえる”  それは、想いを言語化する以前のアモルファスな感情を、僕と彼女の間に流れる時間を通じて感じあえるということ。

 黄昏に浮かび上がる遥の小柄なシルエットを見送って、夕景に染まっていく街を前に、帰りの普通列車を待つ。そんな何気ない日常がずっと続くのだと思っていた。

——またね。

 また……。それは反復を意味する言葉であり、その反復を願う言葉でもある。しかし、時に反復は二度と訪れない。日常は突如として誰しもが予想もしなかった方向に舵を切ることもある。それは誰かにとっては希望につながるのかもしれないが、別の誰かにとってみれば果てしない絶望だったりする。

 出会いは偶然や奇跡で語られ、別れは必然のように語られる……。そうなのだとしたら人はなぜ、誰かと出会うのだろうか。もう二度と会うことができないことが必然ならば、いっそのこと、偶然や奇跡なんて望まないし、最初から全てを無かったことにしてほしいと願うことさえある。

 友人は、『それは違う。共に過ごした時間を大切にしないと』 なんて言っていたけれど、人の願いに正しいも誤りもないだろう。過ぎ去った時間が大切なものであったとしても、それがどれだけ愛おしいものであったとしても、そんな過去が救いになるとは限らない。心に開いてしまった大きな穴は、過去という時間の大きさに対して非線形的に拡大していく。

——ペンローズの三角形。

 それは三本の真っ直ぐな四角柱がそれぞれ直角に組み合わされていながら、全体で三角形を形成している構造体のことだ。これを通常のユークリッド空間における三次元の物体として具現化させることはできず、ある種の三次元多様体でのみ存在できるという。

 過ぎ去った時間に手をのばそうとしても決して届かない。不可能性の最も純粋な形。過去はペンローズの三角形だ。

【第2話:春の倫理とコペルニクス的転回】

 ペンローズの三角形、その表面を追いかけていくと、四重に折り重なったメビウスの帯になっていることが分かる。ある種の不可能図とも言えるものだ。一見すると、どこが不思議なのか気づかないのだけれど、よくよく見てみると、現実にはありえない構造体であることが分かる。

 僕らの認識は、印象による世界の把握が第一義的であり、理性的に注意深く観察をしていかないと、その在り様を細かく把握することはできない。

 テレビをつけても、インターネットのブラウザを立ち上げても、そこから発信されている情報は、一昨日から変わり映えがない。どのメディアも必死で、この星に迫る危機的絶望を伝えている。

『潜在的に危険な小惑星とは、地球近傍小惑星の中でも、特に地球に衝突する可能性が大きく、なおかつ衝突時に地球に与える影響が大きいと考えられる小惑星のことを指します。現在、1800個ほどの天体が確認されていますが、これは危険な小惑星全体の10%にも満たないと言われています』

——小惑星が落ちる。そんな報道が街を駆け巡っているんだ。

 公共交通機関は一部を除き、全線が運休している。現在運行されている列車は、全て防衛省市ヶ谷庁舎 中央指揮所の管理下にある。

『一昨日、小惑星探査衛星  ”ソラカゼ”  によって発見された小惑星は、直径が25メートルほどあり、このままの軌道で地球に接近すると、東京都南部を直撃する可能性が非常に高いと見積もられています。直撃した場合の最大被害予測はご覧の通りです……』

 日本の政治経済中枢が、あと数時間で消滅する。そんな報道にリアルさが持てないのは、小惑星が地球近くを通過し続けていたことを過去数千年にわたって知らずにいたということがありうるのか、という問いに集約されているのかもしれない。

 テレビは、東京駅のプラットホーム上空の映像に切り替わる。衝撃波警戒区域外へ向かう人々が、特別ダイヤで運行される列車に吸い込まれていく様子が映し出されていた。

 僕らはあまりに平和な日常に慣れきっている。そんな日常に不思議さを見出すことの方が難しい。せいぜい、異常気象や地震などの災害が起こるたびに、人間の振る舞いや思考なんて、世界を形成している物理法則に比べたら、どこまでもちっぽけな存在なんだと思い知らされる程度だ。

 一見すると不思議でも何でもないけれど、でもよくよく見てみれば不思議なことなんて沢山ある。モノの見方や考え方は、だいたいにおいて特定の価値観に支配されている。

——すべての科学、すべての哲学は、啓発された常識である。

 だれが言ったか知らないけれど、常識とはそういう仕方で成り立っている。

「優樹くん、小惑星はね、火星と木星の間にたくさんあるのよ」

 遥は小学校の理科専任教師だった。大学では宇宙物理学を専攻していたらしい。物理学があまり得意でない僕には、彼女の難しい話はよく理解できなかったのだけれど、星座の話や、惑星の話はとても興味深かった。

「プトレマイオスは知っているでしょう?」

 毎月のように二人で通ったプラネタリムの帰りに、遥とそんな話をした。それは付き合いだしてちょうど一年の月日が流れた頃だったと思う。四月初め、夜の風が少し暖かい、そんな日だった。彼女を自宅まで送る途中、住宅街から少し離れた場所を流れている川沿いを歩いたんだ。そう、この日は河川敷に植えられた桜が満開だった。

「ああ。知ってるよ」

 クラウディオス・プトレマイオス。地球は宇宙の中心に存在していて静止しており、全ての天体が地球の周りを公転しているという天動説を唱えた人物だ。

「天動説で観測できる天体運動を説明するには、なかなか厄介なことがあったの。惑星って、“迷える星”って書くでしょう?」

 風が緩やかに吹くと、木の枝が小刻みに揺れ、桜の花びらが湿気を含んだ空気の中をゆっくり舞い降りてくる。月の光を反射しながら、それは薄いピンク色というよりはむしろ紫に近い色だった。

「プラネテス……ギリシア語で迷える人を意味する言葉だよね。惑星の語源って」

 惑星は英語でプラネット。元をたどれば、それはギリシア語のプラネテス。

「そう。例えば金星のような惑星の軌道を地上から観測すると、進行方向とは逆に軌道が変わってしまうことがあるの。まるで夜空を迷っているかのように見えるのよ」

 惑星は恒星の間を西から東へ運動、つまり順行していくように見える。しかし、ある特定の時点で、東から西へ逆戻りするように観測される。天空をさまよう星。惑星とはそんな星の姿に垣間見える、ある種の不思議さをまとった言葉。

「単純に地球の周りを回っているわけではなさそう、ということは経験的に理解できるんだけど、天動説の理論体系でこの現象を説明するためには、周転円と呼ばれる惑星軌道をつけ足したり、もういろいろ面倒なことになったのね」

 学生時代、科学哲学を専攻していた僕には、科学史の話はわりと身近だった。現象を説明しうる理論はシンプルな方が優れている。

「地球を中心に天体がその周りを回っている。そうではなくて、地球がそもそも動いている、ということを理論体系に含めると、どうにも惑星の軌道がシンプルに説明できるようになったのよ」

「コペルニクスだよね」

「そう、コペルニクスの地動説」

 物事の見方が180度変わってしまう事を比喩したコペルニクス的転回なんて言葉がある。まあ、それほど大げさな話ではなくとも、科学理論は本質的に暫定的なものであり、認識能力が僕たち人間よりも優れた宇宙人であれば、同じ現象を別の理論で説明するかもしれない。どのみち人間に認識できる現象には限界がある。だから現象を説明するための理論は常に不完全なんだ。

 はらはらと舞い落ちる桜の花びらを手で救ってみる。透きとおる紫色の向こう側で、遥の笑顔と季節外れの暖かい風が、造り物ではない春の美しさを形作っていた。

『東京駅発、最終列車のご案内です。各路線ともに、ダイヤの大幅な乱れが予想されます。最新かつ正確な情報は駅係員にお問い合わせください。宇都宮線、宇都宮行は、16時30分、東海道線、熱海行は16時18分、中央線特別快速……』

 地球に接近する可能性のある小惑星は、分かっているだけで16000個。いつか衝突する可能性のある小惑星が1800個。さらに、衝突リスクのある小惑星が毎日、五個以上のペースで発見されている。未発見の小惑星が地球に落下する可能性なんて十分にあり得る話だ。人の認識能力に限界があるだけ。それは技術的な問題も含めて……。実際、ロシアのチェリャビンスク州の隕石落下は未然に発見されていない小惑星だった。

 小惑星が与えるインパクトは、この日常に慣れ親しんだ世界を、コペルニクスが描いた景色のように転回させていくのかもしれない。

 退去命令は、小惑星が東京南部に落下することが判明した一昨日より断続的に発令され続けている。疎遠だった家族からの連絡はない。きっと、もう東京にはいないだろう。

【第3話:置き去りにしてしまった願いを……】

 人が消えた街の中、僕は通い慣れた新橋方面へ向かって歩いている。巨大な高層ビル群から覗く午後の空は、いつもより光の量が多い。車が全く走っていないのは、東京都が発令した戒厳令のためだ。主要幹線道路を含め23区内の車道は全面通行禁止となっている。

 いつだったか、遥と二人で歩いた品川インターシティーもこんな景観だったように思う。平日の深夜だからなのか、人影も少なく、それでも近未来的なデザインの巨大な建造物は確かに息づいていて、そのギャップが不思議な空間だった。人の存在が限りなく薄いのに、照明は煌々と照らされ、街だけが生きている風景。僕らはそんな空間を抜けながら、品川駅に向かって歩いていた。

「授業参観、来てみる?」

 いつもと同じように唐突に始まる遥との会話。その文脈を探りながら彼女に視線を向けてみる。少し幼い彼女の表情に、まるでいたずらをしたばかりのような、少年のあどけなさが含まれていた。

「小学校に通わせるような子供がいるように見えるかい?」

 遥と結婚をして、いずれ子供を授かることができたのなら、僕にもそんな日常を経験することができたのだろうか。

「ふふ。そんなふうには見えないわよ」

「なら、ちょっと気まずいかな。そもそも小学校には関係者以外入れない、そうでしょう?」

「学年主任には許可を取ってあるの。大学の同期が、参考までに私の授業を聞きたいって」

 突然、鳴りだした携帯通信端末のアラーム音が記憶の再生を一時停止させる。緊急安全性情報は、一時間おきに繰り返されていて、どう設定しても解除することができないようだ。真っ赤な警告に染まる液晶画面には、落下予測地点が東京都品川区であること、東京都からの即時退去を要請する文字情報が並んでいる。

 この状況は絶望と呼ばれる何かなのだろうか。否、僕はそうは思わない。むしろ、みな希望を携えながらこの街から去っていくのだと思う。だから決して後ろ向きなことではない。後ろ向きに見える行為の中にこそ、真に前向きな行為な行為が含まれていると、僕はそう思う。絶望にとらわれ続けているのは、むしろ僕自身なのだ……。

「月は地球のまわりを回っています。このように、星が星のまわりを回っていることを公転と呼びます。はい、公転。月は、地球のまわりを公転しているんですね」

 遥を見上げる子供たちの真剣な眼差しに、自分の小学生時代はどうだったろう、と考えを巡らせてみるけれど、当時の授業風景も、あの頃の自分が何を考えていたのかもよく覚えていない。関心は人の記憶を形作る重要な要素だ。関心のないものに人は視線を向けないし、仮に視線を向けさせられたとしても、記憶には留まらない。

「地球そのものも太陽のまわりを公転しています。地球が太陽のまわり一回転するのに、ちょうど一年かかります。季節が一年ごとにくりかえす理由は、地球の太陽のまわりの公転しているからなんです」

 そう言って遥は、児童の父兄に紛れて、教室の後ろにたたずむ僕に視線を向け、軽く笑みを作ってくれた。教室の窓から入り込んでくる風が、カーテンを揺らし、そして遥の髪をなびかせていった。再びめぐる季節を、もう少しだけ君と一緒に過ごしたかった。

 忘却とは、記憶されていたものが無となることではない。果てしない沼の底に埋めたはずの記憶の破片は、再び浮かび上がってくる可能性を秘めている。忘却とは記憶の無を願うことにすぎない。そして、そんな願いは往々にして星に届かない。

「おいっ。君、そこで何をしているっ」

 過去の情景を再び切り裂く鋭い声に、僕は思わず後ろを振り返る。自衛隊の特殊装甲車両が僕の後方から近づいていた。ひと気のない第一京浜に、迷彩柄の特殊車両だけが走っている景観。街の終わりにそぐわない違和感がそこにはある。

「ここは緊急退避区画だ。速やかに退避しなさい。今ならまだ、神奈川方面へ向かう列車が出ているはずだ。衝撃波警戒区外エリアまで、すぐに向かいなさい」

 迷彩服を着た男が、車両の窓から上半身を乗り出し、そう叫んでいる。まだ残る住民を探し出し、安全に退避させるために、警視庁と自衛隊は共同で昼夜問わず活動を続けていた。しかし、上空を旋回していた自衛隊のヘリコプターも、その姿をめっきり見かけなくなった。もう残された時間はわずかなのだろう。

「分かっています。僕は大丈夫ですから」

 急ぎ向かう場所があるのだろう。迷彩柄の車両に乗った自衛隊員は、それ以上何も言わず、そのまま僕の前を走り去っていった。

 終わりの時が迫っている瞬間、もし、自分以外の誰かを想えるのなら、その想いはきっと本物に違いない。

「そろそろ……かな」

 もし、過去が取り戻すことができず、受け止めるしかないことなのであれば、なぜ人間は過去に対して、もがき苦しみ、取り戻すべく抗うのだろうか。その答えを探したい。そう、強く思ったのは、小惑星が都心に落下するという報道を目の当たりにしてからだ。

 だから僕は、汐留ビルディングの最上階に向かっている。正面エントランスからエレベーターホールに向かうも、電源は全て落とされているせいか、照明も消えている。僕は廊下の突き当たりから、上層へ向かう非常階段を駆け上った。

 かつての職場であるこのビルの内部構造は知り尽くしている。この階段を登り切ればやがて最上階に出ることができる。

——空に舞う、迷える星を、もう一度、君と眺めたいんだ。

 ビルの最上階から屋外へ出てみると、異様な温度に驚いた。真夏のような外気に、息をするのも苦しい。

 やがて視界には、東の方角から、真っ白な雲が一直線に西側に向かって延びてくる光景が映し出される。その先端には青空を真っ赤に染める巨大な小惑星。真下に小さく見える新橋駅のホームが、あの時と同じように朱に染まっているのは、決して西陽のせいじゃない。

 その軌道の下側と上側、空をくっきりわける境界線。太陽の光は、小惑星がまるで尾を引いているように吐き出している直線状の白い雲に分断され、その上下に明暗差をはっきりとつけていた。

「自然がこんなにもはっきりと空間を分節するなんて……」

 上空を一直線に飛来してくる星は、小惑星なんて言うのだけれど、直径は30メートルもある。空を覆い隠すものがないこの場所から眺めてみると、まるで太陽が二つになったみたいだ。空気を秒速18キロメートルで切り裂くその音は、音というよりはむしろ、鋭い風に近い。まるで桜の花びらを散らしていくように、空の青さを蹴散らしていく。

 小惑星の動きに合わせて、地表に伸びる影の方向が素早く変化していく様子は、太陽をコマ送りで再生した映像のようだ。

 目の前を横切る巨大な光が、僕の目線のやや下側を通過したとき、大きな破裂音とともに、いくつかに分裂していくのが見えた。あまりの音の大きさに、僕の聴覚神経はその機能を失ってしまったようだ。耳鳴りだけが頭の中に響くなかで、分裂した小惑星のかけらは三方向に別れ、予測された品川よりもやや南側に落下していくように思えた。

 僕はゆっくりと瞼を閉じる。置き去りにしてしまった願いを、再び……。

 無音の中、目を開けると、その瞬間、辺りにそびえる高層ビルの窓ガラスが一斉に吹き飛んでいった。小惑星が空中で炸裂した時に発生した衝撃波だ。それは、地面を揺らすような振動となって、僕の体もビルの屋上から吹き飛ばしていく。

 すっと重力が消え、真っ白な光に包まれていくなか、紫色の花びら舞う季節に佇たたずむ遥の姿が浮かび上がる。彼女の微かな笑顔の向こう側、言葉では表せないような大切な感情に触れることができたんだと思う。

 印象のその先に、純粋な不可能性があるにもかかわらず、僕らは互いの存在を必要としていた。

 やがて桜の花びらは、紫色の残像を残しながら吹き飛んでいき、そして遥の幻影も白い光に包まれていく。

星迷う空の下で願う夢は遥か。

——またね。

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