大人の余裕。
メインの、ニュージーランド産牛ほほ肉のポワレが出てきた時には、僕は飲み物をスプモーニに変えていた。
りょうこさんはシェフおすすめのグラスワインの赤を二杯、すみれさんはいつもどおりの白をすいすいと飲んで、残り少ない三杯目を傾けながら、
「やっぱり美味しいものと楽しいおしゃべりは、活力になるわよね。」
と楽しそうだ。
りょうこさんと二人、すみれさんの部屋を訪れたのは夕方で、
「山川と申します。」
と、すみれさんに慣れた手つきで名刺を差し出したりょうこさんは、仕事の顔をしていた。
「りょうこさんね。いつもかおるがお世話になっております。どうぞ、座って。」
すみれさんのそのスマートな対応もまた、会社の面接かなにかみたいで、普段の昼間の彼女たちの仕事ぶりを少し垣間見たような気がした。僕にはない、仕事の顔、なんかいいなと見つめてしまっていた。
「かおる?」
「あ、いえ。なんか会社みたいだな、と思って」
「あはっ。そうね。りょうこさん、ごめんなさいね。フランクにいきましょ。楽にしてね。」
「ふふふ。ありがとうございます。」
それから二人は、僕の話であれやこれや盛り上がり、僕だってそりゃ、気が合うだろうな…とは思っていたけれど、すでに二人は僕の話す隙を与えず、ぽんぽんと話が飛び交っていて、それでとうとう、
「ねぇ、お腹空かない?近くに美味しいフレンチ居酒屋があるの。行きましょう?」
というわけで。
このフレンチシックなダマスク柄の壁に、艶のあるアンティークな丸テーブル、深緑のランチョンマット、クラシックなうさぎの置物、フレンチというよりは、わりとカジュアルなビストロタイプのお店「ベルエキップ」で僕たちは、食事をしているのだった。
アミューズも、鮮魚のお刺身サラダも、冷製オニオンポタージュも、どれも美味しい。すみれさんが好きそうな味、店内の雰囲気も含めて賑やか過ぎず、かといって気取らず居心地が良い。
「ん〜、おいしっ。」
すみれさんが仕事の話をしはじめると、りょうこさんも通ずるところがあるようで、とくに若手の育成に関しては、二人の口調は強くなってきて、
「そうですよね!あとでとかじゃないですよね!」
「そうそう!それ今できるよ、って言っちゃえばいいのよ、笑顔でサラッと。」
「笑顔でサラッと。」
「笑顔ってやっぱり、改めて大事なのよ。」
ふふふ、と二人が笑うその笑顔に、若干ゾゾッとしたのは僕だけだろうか。ともかく、二人はとても盛り上がっていて、僕はそんな二人を見ながら、外パリッ中ジュワッなほほ肉を頬張った。
バルサミコ酢の酸味がほどよくて美味しい。
「りょうこちゃんみたいな子がうちにも欲しいわ。ねぇ、転職とか考えたことないの?」
おいおい。それじゃあ本当に面接みたいじゃないかと思ったけれど、りょうこさんも
「そうなんですよね、最近、少し考えたりすることはあるんです。」
とか言い出している。え、え、転職?と、二人を交互に見つめる僕を、りょうこさんが見つめ返し
「でも、かおるくんもお仕事はじめたばかりですし。転職は考えてますけど、今じゃない、気がします。」
と、言った。
「あはっ。かおる、愛されてるのね〜。」
クルクルとグラスの赤ワインを回しながら、すみれさんは僕を覗きこんでニヤつく。
僕は急に照れくさくなって、体温が上がってきて、ぼわっとアルコールがまわってしまう。
僕は二人ほどお酒が強くはないのだ。
「赤くなってる。かわいっ。」
🍸🌃
「ごちそうさまでした。楽しかったです。」
「こちらこそ。またごはん行きましょうね。」
「すみちゃん、ありがと。」
ぴょこんと頭を下げるかおるくんの頬は赤く、目は充血している。酔ってしまったみたいだ。
「りょうこちゃん、かおる、お願いね。」
「はい、すみれさんもお気をつけて。おやすみなさい。」
「はいはーい。おやすみ〜。」
ひらひらと手を振って、すみれさんはマンションの方へ歩き出し、私たちはそんな背中を見送ると、反対方向に歩きはじめた。
私の右手を、腕ごと抱き抱えるみたいにして、酔ったかおるくんが握っている。
楽しい夜だった。
すみれさんは明るくて、さっぱりしていて、少し強引で、それでいて品があって。話す内容にも、ふとした所作にも、大人の余裕みたいなのを感じて、こんな上司だったら素敵だろうなと、前向きに転職を考えてみたくなった。いつでも颯爽と前を歩く格好良い大人を見ると、ワクワクする。このところ若手育成に正直うんざりすることが多かっただけに、すみれさんとの会話は、とても刺激的で、目指す姿が見つかったような、道が開けたような清々しさを感じていた。キリッとしながら奥深いさっきの赤ワインのように。
外はまだ昼間の熱が冷めないむっとしたような空気で、風はなくベタついて、それでも、こうして二人で夜に歩いて帰るのは好き。
「すみれさん、素敵な人だね。」
「すみちゃんは、怒ると怖いんだよ。」
「ふふふ、そーかもね。」
「でも、めっちゃ優しい。」
「うん、優しい人だね。」
突然立ち止まったかおるくんに、右腕が引っ張られる感じで引き止められた。
「ん?」
腕をぐっと引き寄せられて、そのまま。
かおるくんがキスをした。
まだ車通りの多い道路脇。
体温の高いかおるくん。
二台、三台と車が通り過ぎる音。
かおるくんの長いまつ毛。
ふわふわの髪は少しのびて、耳にかかって。
「りょうこさんも、優しいよ。」
唇を離して、そう言ってニコッと笑顔になるかおるくん…。たまに見せる少女のような顔。
かわい...。
あぁもう。この子ってば…。
無自覚にこんなに可愛いのホント罪。
いくらこの子にその気がなくても、周りがほっとかないのではと心配になるほど無邪気な笑顔。
だめだ...。
もう、腕をひっぱって、
「はやく帰るよ。」
大人の余裕?
今の私にはそんなの持てない。
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かおるくんの母 かすみさんの双子の妹。
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