『運命』は受け入れるもの? 抗うもの? ~FINAL FANTASY XVによせて~
○概要
FINAL FANTASY XV(以下、FF15)をクリアした。昨年、シリーズ最新作であるFF16をクリアした折、色々と思うところがあり(詳細は以下のnote参照)他の感想を読みあさっていた所、FF15に関心を抱けるような記事に出会ったので、プレイしてみることにした。
この記事では本編(DLC含む)、小説版の二つで展開された物語に言及した後に、FF15というコンテンツへの総論を述べていく。本編の内容にも当然触れていくが、スクリーンショットやイラストの類いがない、文字ばかりの記事であることをあらかじめご了承いただきたい。
○本編(DLC含む)
・楽しい旅路だった、chapter6までは……。
冒頭から『スタンド・バイ・ミー』の曲が流れ、四人が車を押している。この時点で、『ここから旅が始まり、そして終わり、四人が分かたれていく』ことを想像してしまっていた。実際それは半分的中するのだけれど、一方で果たしてこの旅路がどれだけ分かれ難いものになるかは、まだよく分からなかった。何せ語られることが少なく、なりゆきで王子・ノクティスとその護衛が結婚相手に会いに行くが、とにかく王子はダラダラしており、周囲もそれに付き合っている以上の印象がなかった。
徐々に会話が増え、一日の終わりにキャンプをしながら写真を見返すというゲームのサイクルが明らかになると、四人への愛着も湧いてくるようになった。RPGとしては正直やや単調な印象だったが、それでも仲間と協力して敵を倒すというプレイングが、彼らの信頼関係を伝えてくる手段としては十分だった。本編をよそに次々出てくるサイドクエストを遊ぶのは楽しかったし、写真撮影の過程でダンジョンが出てきた時は結構嬉しかった。目的地までの車中で四人が喋っているのを聞いていると、何だか五人目になれたような気がした。
だから、この旅路が思いもよらない形で、ふわっと終わるとは思わなかった。
chapter7に入ると、仲間の一人であるグラディオラス(以下、グラディオ)が理由も話さず一時メンバーから抜けてしまう。その本心こそDLCにて語られるが、正直この辺から描写不足――言いたいことに対して説得力を持たせられない画面の弱さが目立った。グラディオは敵の将軍からノクティスを守れなかったことに対して負い目を感じていたが、当該のシーンからは敵の強さも、守れなかったという結果も感じ辛かった。仲間の離脱という重要な展開を描くのであれば、それに至る過程もまた重要なものとして描いてほしかった。そして、再加入もまた、重要なものとしてあるべきなのに、夏休み明けに友人と再開するようなノリで、またメンバーへと加わっていく。
そして海を渡って別国へと向かうchapter8から、旅路には戻れなくなる。何の予兆も予告もなしに。まさかそこから一直線にしか進めない物語になるとは………………。その物語自体は嫌いではないのだけれど、オープンワールドを提示していたゲームとしての豹変具合に目眩がしそうだった。明らかに『何かの諦め』があったとしか思えない。それでも、ここまで続けた物語の最後は見届けたい。その一心で続けていった。
・一本道の果てに、愛すべき幻想に出会えた。
細々と言いたいことを抱えつつも、物語を最後まで至らせることは出来た。エンディングの過程で、筆者は声が出た。嗚咽だった。
『わりぃ、やっぱつれぇわ』の台詞自体は、インターネットを見聞きする過程で知ってしまっていたけれど、本編を経て聞くと感慨深く、そして軽々には使い難い言葉だと分かった。しかし、声が出たのはその後だった。
それが何であるかは明示されない。ただ、美しい玉座と、父親の祝福が声として聞こえる中、王となったノクティスと、王妃であるルナフレーナが、本編ではなし得なかった再会を果たし、旅の思い出の写真を見つめてから、共に眠りにつく。
それは幻想なのかもしれない。
本当ではないのかもしれない。
それでも筆者は、この幻想を愛さずにはいられない。
この時、一つの映画が頭に過った。『ラ・ラ・ランド』という映画である。この作品でもまた、最後の最後に一つの幻想が描かれる。それを見た瞬間もまた、筆者は嗚咽を上げてしまった。
ありもしないもの、そこにないもの、本当ではないことが、その『幻想』の中では本当になる。いつしか目覚めてしまうかもしれないけれど、それを見ている間には、幸福や祝福がある。そういうことを抱きしめ、愛さずにはいられない。
だから、どれだけゲーム体験としてやや怪しくても、途中から一直線の物語になったとしても、FF15のことを好きでいようと思った。
……この時点では。
・DLCは普通。
本編クリアの翌日から各種DLCを遊んだ。仲間のエピソードである三つに関しては、正直本編に入れておいた方がいい内容では、という印象だった。勿論、三人それぞれのアクションを遊べたのは良かったが、それもまた本編で発揮してほしいものだった。本編では心情を吐露する機会の少なかった(だからこそ、chapter10で旅への同行を許してほしいという言葉には胸打たれた)イグニスの、使命以上に友人を大切にしていることを示す叫びには感動出来た。
エピソード・アーデンについては、本編にてひたすら悪役として描かれていたラスボス・アーデンの過去が明かされることで、同情の気持ちがかなり湧いてきた。彼を闇の道へと落とすきっかけとなった弟の方が極悪で、短い出番ながらその態度と行動はあまりにも酷かった。
総じて、本編の補完としては悪くない、という出来だった。
○小説版
・『運命』は受け入れるもの? 乗り越えるもの?
この記事は『FINAL FANTASY XV -The Dawn Of The Future- デジタルスペシャル版』を読んだ直後から書かれている。読む前までは、『ゲームとして問題こそあるものの、総じて愛せる物語だった』という気持ちだった。しかし、これを読んだことで、その評価は揺らぐこととなった。
この小説で描かれるのは、本編とはまた異なる一つの結末である。ノクティスとルナフレーナが死亡する運命を乗り越え、結ばれる姿が表紙にて描かれている。それ自体は好ましいことだが、それを構成する要素のことを思うと、なかなかに受け入れがたい。
その理由を話すために、少しだけストーリーを噛み砕く。
本編で二人が死亡するのは、六神(文字通り神様、物語の中でも助力を求めることとなる)が提示した『運命』によるものとされている。あらかじめ決められているから、逃れることが出来ない。それでもルナフレーナはそれを受け入れ、ノクティスはその行動に心打たれて、自らの運命を受け入れる。『運命』であっても、それに殉じることを決めたのは人であるからこそ、最後の最後に見せてくれる幻想が光る。
小説では先ず、ルナフレーナが生きていたことになっている。彼女が本編のラスボスであるアーデンへと働きかけ、協力を提示したことで、物語は当初の『運命』を乗り越え、アーデンは過去を清算し、ノクティスとルナフレーナは結婚する未来へと至る。言わばラスボスがアーデンから『運命』=六神へと切り替わっている(ルナフレーナの生存もまた、六神の策略であった)。
『運命を受け入れる』という物語の別解として、『運命に抗う』というものが用意されていることが、個人的にはかなり不満である。勿論、それは前者の結末を好んでしまったことが起因している。かの幻想を愛してしまうが故に、もう一つの結末を受け入れがたいと思っているのは間違いない。しかし、ゲーム体験を通して描きたかったのは、(些か駆け足ではあったものの)旅路によるノクティスの成長と、その果てに『王』としての『運命を受け入れる』ことではなかったのか。『運命に抗う』ということを描くには、旅路の中でまた違う事々を描き切る必要があったのではないかと、思ってしまう。
この小説版は、本編のDLCで作成される予定だったものだったと聞き及んでいるが、結果として、そうならなかったことを、少しだけ良かったと思ってしまっている(小説版の台詞たちに、アーデン役の藤原啓治氏のボイスが付かなかったことは心底残念だけれど)。
○総論
序盤で提示したように、FF15に関するとある素晴らしいnoteを読んでおり、本編を通して知るべきことを先に把握していた部分はあった(なので敢えて当該noteは貼らない。複数の記事で構成されており、とても読み応えのある文字数だった、とだけ明言しておく)。
しかし実際にプレイすることで、良くも悪くもゲームとして希に見る体験が出来たことは間違いない。特に、序盤で提示された壮大なオープンワールドに対して、終盤の一本道となるゲーム体験は、素人にも『制作で何かがあった』ことを想像させる。ものづくりに於ける一つの結果として、可能であれば体感してほしい。
あまり文字数を割けなかったが、主人公たち四人組のことは非常に好きになれた。本編を補完するアニメーション作品『BROTHERHOOD FINAL FANTASY XV』では、彼らがどうして今のような仲になったのかを描いているが、どれも素晴らしい内容だった。特に仲間の中でもお気楽な振る舞いをするプロンプトの過去については、本編での見方が大きく変わるような内容だった。ゲームより先に見ても構わない内容で、一時間ほどの映像が公式で上がっているで是非。
余談となるが、FF15を経て作られたFF16は、対になるような内容となっているように思う。オープンワールドの廃止、会話の少ない旅の仲間、変わりようのない一本道の物語等等……そういう点に、自分で触れて、自分で気づけたのは、良い経験だった。