何を心として認めるか:心を定義することの難しさについて

心とは何かを定義する難しさ
 人間の心(心理)とは何かについて述べることはとても難しいです。魂、霊、精神、意識、記憶、意志、主体、心身など、心と同じように使われる言葉はありますが、どれも、その言葉が指すもの(概念の内容や機能)は何かと言われれば、体験的に実感できても、明晰にその言葉が指すものが何かと具体的に答えることは難しいと思います。例えば、学問の中で使われる言葉と、世間で使われる言葉は同じでも、指し示すものは全く異なっていることがあります。医療機関で使用される心理検査(医科診療報酬で認められているものを指す)と世間で流布している心理テスト(メディアで扱われるクイズや簡単なチェック項目で回答するもの)は、その用途や理論的背景が全く異なるものです。心という言葉に含まれる、人間が心を持っている前提のような感覚もあって多くの人が、誰もが同じように心という言葉を意味づけていると考えてしまいがちです。

 また、必要以上に、心という言葉に惹きつけられたり、縛られたり、反対に無関心になったり、不要としたりすることもあるかもしれません。実際、現在の日本では根拠の無い心理テストや、専門家として保証されていない心理カウンセラーの資格が反乱しています。ここで、この話を出したのは専門的な教育を受けた臨床家や学問的な研究者しか心理を語ってはいけないということが言いたいわけではなく、様々な人がそれぞれの立場から心を定義していることが言いたいのです。あるいは誰もが定義される側から定義する側に憧れや羨望を抱いているということかもしません。それは、自分が何か分からないよりは安易に定義や分類されることに安心を感じる気持ちなのかもしれません。こうしたことは、専門職や研究者への憧れや羨望、言説の内容より肩書きで信用してしまうことや、学問的な権威に対する嫌悪感や反知性主義的な反応にもつながるかもしれせん。問題の当事者になる(される)ことは、誰にとっても喜ばしくないでしょうし、立場によって権力勾配が生じることは差別や排除という暴力が起こる構造になるのかもしれません(しかし、私達は時間の経過とともに立場や状況といった構造が変化し望まない構造を再演してしまいがちです)。

 しかし、専門職や研究者の仕事は心を定義することだけでしょうか。それだけではないはずです。学問の世界でも、時代とともに心の定義は変わっていきます。それだけでなく、どのような心の仮説(理論)を用いてどのような定義(構成概念)を対象にするのかも、心に対する研究方法も変わっていきます。おそらく、ただ心を定義することだけでは足りません。人間の心とは何かとい問いには目的や価値(意味づけなどその人の重みのつけ方)も加わってきます。心とは何かということは、自らの心やその心が生まれる場や関係といったことから、自ら心とは何かと問いかけ、現状で出来る最善の応答を提示することかもしれません。

 また、私達は日頃から心という容れ物を十分に理解しないまま、ブラックボックスのように心の中に何でも詰め込んで、心を分かったかのように振る舞っているのかもしれません。心とは何かという問いではなく、心という容れ物があるのなら、その中に何を入れたいのか、何を入れたくないのかをどのように峻別するのか、その過程で心という容れ物に何が起こるのか、分からないままに考えていく為に必要な問いを用意することが求められているのかもしれません。

心の臨床家とは何か
 資格や理論よりも、眼の前の人をその人がどのように体験しているかと関心を向けながら理解しようとする態度、その人の役に立つ為に何が起きているのかを見立てる知識や経験と、それに対する手続きの組み立てと実現する為の技術、そして、その人自身が生まれ生きてきた中での傷つきや大切にしてきたものに敬意を払い、これ以上その人を傷つけないという配慮と思いやり、その人の立場になって、その人が幸せに生きられるように支えたり環境を整えられる能力が、そういったことの方が心の臨床家として必要なことなのかもしれません。

 では、心の臨床家とはどんな人でしょうか。それは資格の名前で定義できるのでしょうか。人間の心理や精神医学は、医療や法律ほどの制度的な歴史に比べれば、まだまだ始まったばかりです。また、心の定義のされ方自体が、社会的な文脈を含むものです。誰がが何かの意図で定義した心の定義ではなく、日々の臨床で出会う人達との中で、誰もが見落としていたような、誰かの声を拾い上げることができる心の定義の方が心の臨床家としての大切な態度ではないでしょうか。それは、時代の中で、人間の幸福とは何かを問いつつ、社会の変化に立ち止まり、どうしたらその人の役に立てるのかを考え続けることではないでしょうか。その為には、心の臨床家自身もひとつの理論や経験に縛られることなく、他者の立場を受け入れながら変わることが必要なのかもしれません。

 人間が人間にしてきた理不尽な関わりが積み重なり、人間の社会や文化の中に人間の幸福を阻害することがあるとしたら、何世代も渡って伝承される心を理解する必要があるのかもしれません。心というものは、ひとりの人間の中にあるだけでなく、様々な生命の間にあるものとするなら、心とは何かという問いも変わっていくのかもしれません。また、政治という面からみれば、人間の個人より、家や国家という集団が個人より重要とされてしまうことも起きてきたこと。心自体も、国家のような擬制のひとつであるという考え方があるとしたら、心をどのように定義すればよいのでしょうか。このように考えていくと、心を見立てる事自体が、自己言及として心を定義することになるという考え方もできるかもしれせん。そうなると、どのように心を定義するかが、どのような心を持つのかという問いになる可能性があると言えます。

心はうつろいやすいもの
 
人間の心の移ろいやすさは、昔から多くの人が語ってきました。人間の心は、時間の経過とともに変わっていくものですし、また、人間の心の動きを心以外のものに摸して例えられたりもしてきました。そして、人間は他者の気持ちを思い遣ります。相手の立場になって、心を動かしてみることもできますし、相手の心の中に自分の心にある何かを映してしまうことも起こります。

 人の心をどこかに留めておきたいのは、人の心の常なのかもしれません。心がうつりゆくことが不安で固定したくなったり、どこかで心とはこういうものだと断定したくなる気持ちがあるのかもしれません。また、心は立場や場所によって変わるものかもしれません。場合によっては人間の心の捉え方も、個人が心を持って振る舞っているというよりも、状況に置かれた個人の振る舞いが心にみえるとすることもできるのかもしれません。

 また、心の臨床家が読むような専門書には海外の文献や論文が翻訳されて出版されたものが多くあります。言うなれば、心理や心理療法に関する理論書です。こうした出版物は、海外での出版された順番とは違った形で出版されます。海外でA→B→Cという文献や論文の順番で展開された学説が、日本国内ではB→C→Aという順番や間の抜けたA→Cという状態で出版されれば学説の理解に混乱や誤読を生みやすくなります。また、出版という媒体自体も、出版社の力関係で世間への普及の仕方が変わってしまいます。このように、心だけでなく、心に関わる媒介物でさえ明確に定義されたものでなく、社会状況によって意味づけが変わってしまうものだと考えられます。

 現在の私達が生活する世界では、多くの人が国家というシステムであったり、経済や科学の影響を受けています。もちろん、伝統的な宗教観やその土地の文化に根ざした生活をしている人もいます。そうしたものの、現実のあり方は人間の心に大きな影響を与えていると考えられます。社会構造によって心の定義は変わりますし、この時に語られている心が、個人の話なのか、家族のような集団の話なのか、国家や人類といったより大きなまとまりの話なのか峻別する必要があるのかもしれません。それは、個人の命を、集団や国といったものと天秤にかけてしまうような過ちにつながると考えられます。現在の日本では、様々な価値観や言説が飛び交い、それによって医学や法律のような古くからある制度も倫理が問われています。立法や司法の立場も問われる、その中で公益性や分配の公平性も考慮して行政で仕事をすることは、これまでと違った困難があるのかもしれません。

補足
 
心理や精神医学だけでなく、人間の脳や神経の基礎研究、意識や記憶に関する研究、言語や時間の研究などが進んでいます。今後は、人間の心を人格や知能、感情や認知、行動や言語からだけでなく、脳や身体の気質的な特徴からなる注意や集中の状態、養育者など身近な人間との間に形成された愛着による他者(自己)との関係の取り方(回避や混乱などの関係の取らなさも含めた)、記憶や学習による知覚と運動の発達や統合、といった視点から見立てることができるのかもしれません。

 また、依存症の研究が進めば、これまで病理や異常とされてきたことも今までとは異なる捉え方ができるようになるかもしれません。さらには人格的な時間の発達だけではなく、生物学的な時間、身体や感情的な時間、様々な時間スケールを持っている複数性が多重に組織化された存在がひとまとまりの人間というような捉え方もできるようになるのかもしれません。ちなみに、私達は自分が感じているとされる主観的な時間感覚を他者(人間だけで無くあらゆる存在)も同じように体験していると考えがちですが、様々な主観はそれぞれ異なる時間や場所を体験していると考えることもできるはずです。その時には、心とは何かを定義する前提自体が変わっているのかもしれません。

 しかし、そうした未来は、まだまだ先のことでしょうし、現在有効にみえる仮説の一握りに過ぎません。私達は自分が持っている仮説や理論、認知的な枠組みや参照枠から物事を見てしまいがちですが、現在の心(心理)の定義の評価は後世の人達に委ねるしかないのかもしれません。その為に、ひとりひとりの人間がひとつの間違いも無い完全な善人になる必要はありませんが、誰かと誰かの間で、間違いを受け入れ傷を絆に、恥を誇りに、不信を信頼に、交錯反転できるような伝承の仕方(人間が生まれて死ぬことの矛盾、そのようなパラドックスが持つ世界からの贈り物を受け取り誰かに繋ぐこと)が出来たら、世界の居心地や現実もよりよく変われるのかもしれないと考えています。その時には、心の定義は既に必要ないのかもしれません。

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