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他人の振り見て?〜ウクライナ/ロシアに思うこと

ウクライナーロシア問題。

組織開発だの人材開発だの言ってるけれど、基本葛藤解決屋なもので、
全体をできるだけ俯瞰して、両サイドの立場を自分ごととして受け止められないと葛藤は終わらないと強く思ってしまう私は、ここ2週間の自分達側のワンサイド情報の日々に気持ちが悪くなっており。

ロシアの中でも今のロシアの行動を支持する側の人たちの声は直接には入ってきていないし、集めたものだって耳だけ情報であまりに不十分なのだけれど、こちら側に身をおきながら親ロの立場の人、こちら側だけどロシアをよく知ってる人、プーチンさんのウクライナ侵攻直前のながーい演説の日本語訳、うっかりこの時期モスクワに滞在してしまったウクライナ、ロシアの血を持つアメリカ人の体験談、などなど頑張ってロシア情報を集めると、そのことを知った友人が送ってくれたりして、ある程度は見えてくるものも出てきた。

そんな中で改めて思うのは、人は如何に自分自身の物語を真実として生きているか、と言うことだ。


私としては戦略的な印象のプーチン氏がこんなに早く武力行使に進む理由が不可解で、読んだ資料の中でどなたかが、戦略的行動から政治的行動への移行みたいなフレームをつけていてなるほどと思ったけど、未だにそのきっかけは、ピンと腑に落ちる形では私にはわからない。

またうっかりロシアの方の声は、モスクワの印象は、ロシア中がみんなが茹でガエルで、その方がいうには、
「みんなやかんから出ようよ!」
と叫んだら、
「君騙されてるんだよ。熱湯こそカエルに理想的な環境なんだ。」
と言われてるようだった。
みんなが、異口同音に同じことをいうのだけれど、彼らはプーチンに傾倒しているわけではなくて、母なるロシアに対する思いが強くプーチンは二の次だけど、今はプーチンのやってることに違和感はないらしい。
とのこと。

プーチン氏が、侵攻前演説としてロシアの朝も早よから語っている中には、私らからしたら歴史誤認の嵐みたいにも見えることも多いし、中には、いや、精神的不調なのでは?なんて声もある。

でも、ロシアについて調べてみると欧米+日本は、民主主義という名の西欧帝国主義であり、その究極はナチスなのだ、という物語はなにもプーチン氏だけのものではない彼らの真実のようだ。

こんなメンタルモデルの人たちだと知ると、果たして西側の制裁は有効なのかしらんと思えてくる。抑制的な文化を持ち母なるロシアに強い思いを寄せる彼らは、似た文化パターンをもつウクライナが徹底抗戦を覚悟するように、制裁に辛抱強く耐えるのではないだろうか。

あるロシアに住んでる日本人の情報では、
彼らがこの制裁に困り果てている傍らで、ロシア人たちはこんなのしょっちゅうだよ風で、こういう時は畑を耕せば食べることができるもう一つの家があるから大丈夫といいながら落ち着いているとか。

私たちの側からは、ロシアがナチみたいに見えていて、また、政治的には制裁しか今のところないと考えるのもそうなんだろうなぁと思うし、主流派に響きたい多くのマスメディアの様子をみると、そうすることで経済的影響を心配しながらも一定の安心感を持つ人が主流なのだとも思う。

そんな方々に、私が、「やかんから出ようよ!」と言ったところで、うっかりロシアに滞在した人と同じ目にあうだろう。私は騙されていて、プーチンはちょっと異常でナチスの再来は彼だよ!と。私としては、「ロシアのみなさんのこちらからは分かり難い気持ちをわかってみようよ」と言っているだけで、味方しろと言ってるわけではないのだけれど。

そして、少しわかってみると、なんだかお互いに鏡みたいになっているんだなというのが見えてくる。これも葛藤が極まってくるとあるあるな現象だ。

私たちの信じている歴史や民主主義の物語は、私たちにとって真実だと思える物語だ。その立場からは、あまりに違う俄には信じ難い物語は偽物であり誰かに操作されたような匂いをぷんぷん放つ。実際、戦地では意図的に作られて先方も承知で流したフェイクニュースも事実としてあるだろう。

しかし、欧米+日本が帝国主義みたいな信念はちょっとそのレベルとは違うようにおもう。もちろん幽霊みたいに存在しないけど存在するような何かに操作されてる可能性は高いけれど、それを言ったら私らの歴史だっていろいろ操作されてきてて、その物語が真実だっていう前提がどこかで日々の中に染みついてしまうようなレベルになるんじゃないだろうか。プーチンだって、その幽霊に操作されている一人なんだろう。だってそうじゃなきゃ、いくら戦略的な彼でも、ロシア人の主流に受け入れられて今のポジションに長くいることは難しいんじゃないだろうか。

今回のことを通じて、私はその物語が真実かどうかというよりは、その物語を生きてきた人々にとっての真実はそうなのだということをそこに関わる生命とともに大切にしたいし、それが自分とってのそれと大きく違っていても、自分にとっての真実もやはり同じような意味で大切にしたいと思っているのだと改めて気づき直した。そして、今回のように、物語こそあまりにも違えど、あまりにも同じなパターンがそこに見えた時は、立ち止まって、待てよと自分に問いたい。もしや、かれらにも私たちがやっていることが同じように見えているのかもしれない、、、

そして、私に巣食う大きな恐れにも自覚的でありながらも、どうしたらお互いに安心安全な中で違いを分かち合っていけるのかという問いを持ち続けていたいと思う。

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