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<身体性と精神性の時代へ2>精神性は「怪しい」?

次は「怪しさ」について書いてみたいなんて言ってから、すでに2年は経って、コロナ騒動もだいぶん様相を変えた。
振り返ればこの間、

<私たちの意識が小さな自我の時代から無意識を含めた自己全体の時代にシフトできないと、いよいよかなりやばいんじゃないのか?>

という問いが、ますます危機感を持って自分に迫る一方、
発信となると、文字通り、「私の書いていることは怪しくて、誰にも理解されないにちがいない」みたいな恐れ、さらには、「下手したら社会に抹殺されるかもしれない」みたいな生存の恐怖に絡む行きすぎた恐れがどこかにあって、すっかり筆が止まってしまった。

そんな中、友人が紹介してくれた日本の霊長類学の礎と言われる今西錦司さんの本を何冊か読む機会に恵まれ、私が伝えたいこと、言いたいこととほぼ重なる論点で、私が生まれる前からそれを伝え続け、進化しておられたことにかなり勇気づけられて、今日は家庭奉仕に勤しむはずだったのをすっかり忘れてしまって非難轟々の中、「ごめんなさ〜い。でも、今書かないとまた書けない気がする〜。」と手を合わせて、Noteに向かうことにした。

そもそも、アメリカのプロセスワーク研究所の最終プロジェクトのタイトルは、「怪しさについて」「On Strageness」である。

幼稚園や小学校を子供らしく楽しめた記憶があまりない私は、自分で振り返っても、死ぬのが怖いので布団の中でシミュレーションしてみるけどちっともできなくてがっかりするような自分を「怪しい」子だと思っていたし、当時の都市伝説で「黄色い自動車が’キチガイ’を探して精神病院に連れに来る」というのを信じて、見つかったら大変息だとを潜めるような少し風変わりな子供であった。

私は、自分でも論理的にはよくわからないまま、ただ、これだ!という直感だけでアメリカのプロセスワーク研究所のディプロマプログラムへの入学を決めていて、それ自体もかなり怪しい。しかし、入学後の学びは、自分が介入者としてファシリテーションやコーチングや、カウンセリングやセラピーにかかわる場面でもっとも有効に働く自分の資質が、自分が幼少時代に最も怪しんでいたことの中にあるのだととことん気付かされることにあった。

内向性を伴う死生観の探求をベースに存在の根源を追求することや、身体性を伴う理屈を超えた直感を伴う介入に信頼を置くことが、目の前にいる方々とともに自分自身を含む全体に気づきをもたらし、結果として癒しや救いが生まれる体験を自分にゆるせるようになるまでには膨大な時間と七転八倒の日々があったけれど、結局は答えはそこにあったし、そのために自分はあの時、万難を廃してアメリカに行ったということに、卒業するころに最終論文を書きながら気づいたというわけである。

さらに、深層心理学はアリストテレスの目的因みたいな考え方を採用していて、始まりにのちのち顕れる要素が全部含まれている、別の言い方をすれば、種の中に芽が生えてから実をつけるまでのなにかが全部含まれていると考える。つまり、私の風変わりな子供時代は種みたいなもんで、まだ生きているからには卒業したからって、このテーマが終わるわけではないわけだ。そんなことは頭では重々承知しているが、今、再び「怪しい存在と社会に認知されれば抹殺される」というンタルモデルは、時空を超えて私の中にやっぱり存在しているのだと、ここまで書いて気がついた。やれやれ、、、

人は誰でも無意識と身体を持っていてうまく統合していけば、その人の可能性と創造性が広がっていく。これが私の基本スタンスだ。そこに否応なく精神性は伴うし、それは身体性と切り離せない。これまでお会いしてきた方々との20年余りに渡る体験が私にそう信じさせてくれたし、今のところそれを裏切られたことはない。精神性の高みはダライ・ラマのような高僧や、ネルソン・マンデラのような精神性の高い社会変革者だけの到達できる境地ではなく、みなさんお一人おひとりにあるものだと思っている。

では、それは決してあやしくないと言えるだろうか。
日本プロセスワークセンター時代、プロセスワークの創始者ミンデル夫妻の来日ワークショップに立ち会う機会が何度かあった。100人以上の参加者が全員ハンドアウトに沿って演習を行う場面が多くあるのだが、途中でトイレに行きたくなって一旦部屋を出て戻ろうと扉を開けると、毎回懲りずに、ひぇ〜〜、こりゃあやしい!と一旦ドン引きする自分を思い出す。普段自分がそうした演習を提供し、率先してデモンストレーションし、みなさんに体験を促しているにもかかわらずだ。

まあ、これには理由がある。無意識に眠っていてその場で現れたばかりの断片は、論理思考優勢の日常意識にとっては未知の領域にある。私たちの用語では、この領域を変性意識なんて言ったりするけれど、この断片を日常意識の領域に持ち込んで統合していくためには、一旦この変性意識に自覚的に身体ごと乗り込んで行って全身で体験しないと、その断片のもつエネルギーやその人の日常とっても意味ある文脈が立ち現れないと考えるのがプロセスワークやシステムアウェアネスの立場だ。トイレに行くのがちょうどその過程だったりすると(大抵、演習の間にこっそりだからこのタイミング)、本人たちもまだわからないなにかを探求している途中を切り取ってしまうので、どうしてもあやしいのである。

また、一般的に宗教であれ深層心理学その他の何かであれ、精神性を標榜する領域に居場所を求めたはいいが、変性意識に取り込まれ、結果的に現実逃避したまま戻ってこられないでいる人にはあやしい匂いがつきまとうことも多いように見える。
一方、精神性を高く持ちつつも、きちんと地に足をつけながら、感じ、考え、行動する人たちは、少しも怪しくないし、自分自身を見つめてその存在そのものを生きている様がこちらにまで響いてくる。

こんなことを書き連ねながら、あやしい精神性やあやしい宗教は他山の石ではないなあと改めて思う。そもそも日常から逃避した意識の中にしか居場所を見出せなくなった人々を生み出す根本は、前回にも述べた、主流の線形思考偏重+経済資本偏重の成長社会などのシステムが自ずと産んでしまう排除の構造であり、居場所をなくした人たちが求める居場所のひとつとして精神性集団も存在する。
そこにしか居場所を見出せない人たちを、主流社会はあやしいあやしいと排除し続ける。やっと居場所を見出した彼らがあやしいと言われて分断される社会にそう簡単に戻れるはずがない。結局、彼らをよく知ろうともせず、未知の存在のままそこに放り込んで、あやしさを産み続けているのは私たちのマインドセットなんじゃないだろうか。

人が一見精神性に見えるような変性意識に取り込まれたままの時には、どこか危ういしあやしい。一方、自分をしっかり見据えながら変性意識で腑に落ちた気づきをさらに磨いて、日常に例え少しずつ持ち込んで試しながらでも得た精神性こそが精神性であり、その入り口がなんであれ自分にも人々にも生きるものになる。

だから、生存本能のひとつとして感じる反応的な’あやしさ’の感覚を全て排除する必要は全くないと思う。時にそれはリアルに私たちを危険から守ってくれる。その一方で、そのあやしさ反応に阻まれて自分にもある精神性に開かれていくチャンスを失うこともある。その見極めはまず生存本能の反応を受け入れ、あ〜、あやしいと思ってるなと認めることから始まる。その上で、それでもなにか引きつけるものがあったり、その感覚につきまとわれるようなことがあるなら、反応の対象を受け入れるのかどうかを含めて、時には自分で時には信頼できる人と共に、自分が向き合う準備ができているかという問いとともに検証していけばいいのだと思う。

冒頭に挙げた今西錦司さんは、今回は私につたないこのメッセージを書く勇気をいただいた存在として登場しましたが、システムアウェアネスの考え方にたくさんの示唆をいただく方として、どこかでまた私なりの理解と持論との繋がりなど書けたらと思います。



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