見出し画像

聲の形の何がいいかわからない人に信者が何度も読み返す理由をあげる

 「聲の形って何がいいのかさっぱりわからない。誰か説明して欲しい」

という声を聞いて、自分が何度も読み返す理由を書いてみました。


この題名でネタバレ配慮は不要だと思うけど
ネタバレ有りなので注意





私は学生時代、男子トイレの便器に手錠で繋がれるような加虐を受けていました。
また親ともうまくいっておらず家も安心できるような場所では有りませんでした。
だから初めて聲の形を読んだ時、普通にフラッシュバックで吐きました。
しかし社会もだいぶ胸糞だったので耐性がついていたのか連載版が進むに連れ登場人物たちの人間臭いクズさが愛おしくなりました。

そのクズな登場人物への愛おしさを決定的にしたのが劇場版と同時期に出た公式ファンブックです。

公式ファンブックで私的に重要だったのは2点
本作品のテーマと、マンガで語られなかった硝子の事です。



聲の形、はディスコミュニケーションがテーマ

聲の形のテーマはディスコミュニケーションです、例えば島田や広瀬たちとの事もそうですね、親友だと思っていたけど彼らの事を将也は何もわかっていませんでした

でも翻って私たちはどうなんでしょう?友や恋人、家族と理解し合えているんでしょうか?お互いが話している事が全てでしょうか?
例えば子供は頭で思っている事全てを言葉にできません、語彙力が足りないからです
では大人なら全部言葉にできているのでしょうか?ならば何故、西宮母が硝子を普通学級にいれることに拘っている理由を視聴者は理解できないのでしょうか?
つまり彼らが子供だったからではないのです、大人だって同じ、言わなければ伝わらない思いは私たちの人生のそこかしこに溢れているのです。

その最もたる象徴が硝子です、
公式ファンブックに書かれていることですが
彼女は小学校時代の事を単純な被害者とは思っておらず、どちらかといえば自らを加害者だと考えています
そして将也のクラスで起きた事件よりずっと前から募っていた加害者意識から冒頭の将也と同じく自らを殺す事にするのです。

その視聴者とはすれ違う機微、自らを被害者だと思っていないことを視聴者が枠にはめて理解しないことこそが本作品のテーマであるディスコミュニケーションであり、視聴者をも巻き込んだテーマの演出でもあるのです
それは、漫画7巻で、劇場版の最後で、将也が述懐するこれと全く同じことです

画像1

画像2

なにかの枠にはめて理解したつもりになる、
それは人間の有する抽象化技術のたまものであり人間だからこそできることです
しかし他のことなら良くても「人間」としての誰かを抽象化して理解する事は、すなわちその人の特徴を削ぎ落とし、「読み取る人の都合良く」理解した気になっているだけにほかなりません。

(いじめっこといじめられっこのくせに)ちょっと気持ち悪いんですけどーwww


植野直花はそう言いました、視聴者もそう思っている人たくさいるし、実際将也もそう思っています。
ですが、もうこの時点で罠にハマっています、誰もが、当人ですら自分の想像する「友達」という枠にあてはめることで二人の関係を理解しようとして失敗しているのです。
人間同士の関係性、そして人間の人となりは何かしらの枠や定規で測るものではなく、それぞれが完全に別個のものなんです。


私はそこではじめに立ち戻り、再度考えます
友や恋人、家族の思い、彼らとの関係性を私は本当に理解しているのだろうか?

例えば私の子供の行動を見ていると、私と似ているな
と思うことが多々あります。
それはもう似ていると思う点が数え切れないほどあるので子供を理解した気になりますが、本当にそうだろうか?
「私は同じ体験をしたから、お前の事がわかる」
それは自分の経験というフレームワークに押し込めて相手を理解したつもりになっているだけではないか?
相手は別の一人の人間であり、同じ体験をしても同じ感想をいだくとは限らず、同じ学びを得るとは限らず、その人の学びは自分とはまた違う正しさではないか?


例えば私は初任給が出た時、親にプレゼントを買いました
「親には初任給でプレゼントを買うと喜んでもらえる」と聞いたからです。
当時家のTVが24インチしかなかったので初任給を全額突っ込んで40インチテレビを買ってきました
でも私の親にはプレゼントを喜ぶどころか「そんな無駄なことにお金を使うなら貯めておけ」と窘められました。
私はその事にショックを受けました
しかし、今思い返してみれば「親」という枠に自分の家族をはめようとした私の痛恨のミスだったと思います。


思い返して唯一ちゃんとできていると思えるのは私とパートナーの事だけです。
私とパートナーは付き合う前に何年も友達だった期間があるので、お互いの好きなこと、嫌いなこと、できること、できないこと、付き合う時点でも自分たちの家族よりお互いを知っていました。

お互いの恋人の愚痴を肴に何時間も電話で語り合いました、好きなゲームについて曲についてアニメやマンガについてヲタク語りもしました、会うと恋人が嫌がるから、と話さない期間もありましたが恋人との縁が切れると、また元恋人の愚痴を言い合いました
この話を人にすると「異性間でそれはありえない」という反応をもらうことがちょいちょいあります。
しかし、それって「恋人」とか「友達」という枠で相手を考えなかったから、相手を枠にはめなかったからできることだったのではないか? そう思えるのです。

パートナーとは結婚して随分と経ちますが今も喧嘩らしい喧嘩もせず、ネットで見かけるような事例はありません、
でも不満が何もないわけがない、自分だってそりゃ不満に思ってもわざわざ言ってないことだってある、ならば相手だって言っていないことはやっぱりある。
最近ちゃんとパートナーと話しているだろうか?今でもちゃんとパートナーのことをよく見て、よく聞けているだろうか?

そんなことを思い返すために、私は人生のステージが大きく切り替わるたび、この作品を視聴し、読み直しています


 結論

公式ファンブック読んだことない人!!! 読んで!

アフィとかやり方わからんのでついてません! Kindle版もおすすめですよ!!!




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?