教えることについて、備え、安心
今日は、人に専門知識を教えてもらった
かなり落ち着いて段取りよく話してくれた。初心者の私たちに寄り添って考えてくれたことがよくわかり、時間かけて用意してくれたことに感動した。
彼女は部長をしてきたらしい。だからだろうなとわかる。
その役目をきちんと果たしてきたのだろうなと目に浮かんだ。
わたしは、アウトプットに苦手意識がある。
しかしそれは、用意できていなかった場合、である。
この時の「用意」とはどこまでか?
原稿は読むために書くのではなく、考えの整理のために書くものとする、のようなことだ。
カンニングペーパーを書け、テスト直前にそれを捨てろ、という勉強法を見たことがあるが、そういう気持ちである。
手元に原稿がなくてもいいほどに自分の言葉でインプットできているときには、すらすらと話せる。
アウトプットが苦手とは言ったが、そのようにすらすらと話せる日が無いわけではない。
それができるときはむしろ、話すことが好きだなと思う。いきいきできる。
過去にも、プレゼンを褒められることがあったが、
そのときは、自分の考えがまとまっているから、きちんと思いを伝えられる状況が整っているから、なんの不安もなく話せていたのである。
用意が大事だ、前もって備えることが、大事だ。
つくづくそうおもう。
前もって行うことは、仕事のクオリティをあげるという対外的な視点もあるが、一番は自分の安心のためだと感じる。
不安をなくすことがどれほどの幸せだろうか?
不安のない状態が、どれほど恵まれていることだろうか。
私たちは不安の中で生きている。未知なことであふれているから。未知は、すなわち不安であり恐怖だから。
だから、その中にある既知は貴重であり、安心は財産なのである。
私は、身の回りに安心があふれる世界で生きたい。
そんな理想的な世界を求めることを、あきらめずにいる。
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