『昨日の虹がほんとに綺麗でさ……』
「昨日の虹がほんとに綺麗でさ……」
カフェの向かいの席に座っている女性は、僕に向かって延々と話す。
「ほんとに急に雨が降ってくるから、ずぶ濡れになっちゃってもう大変だったんだよ」
さいですか。
「でも雨が上がったときに、右のほうにこんなにおっきな、綺麗な半円の虹が見えたからなんだか幸せな気分になっちゃったよね。ずぶ濡れになってよかったって。」
そういえば、僕も大学生の時、似たようなことを経験した。もやもやとした時期のことだったと思う。
当時、就職するより大学に残りたい気持ちが強かった。ただ、本当に大学に残れるのか、アカデミアの世界で生きていけるのか、そして、その選択は就職してそこそこの企業に行くよりも納得のいく結果をもたらすのか、などといったもやもやから晴れない気分で過ごしていた。とは言っても、就職活動の時期はとっくに過ぎていたから迷いと言うより不安に駆られていたのではあるが。
僕をもやもやとした人間にしていた要因は、おそらくもう少しあって、それは恋愛に関することであった。僕は、僕のことを振った人間に、振り回され続けていた。人間の表象能力をこのときは恨んだ。
そう。僕が綺麗な虹を見たのは、そういうもやもやした時期だった。もやもやと共に散歩をしているときだった。
「ねぇ、聞いてる?」
不意に例の女性が現れる。いつもより少しむっとした顔で、いつもより少し高い声で現れる。そして、うるさい。
「まあ、いいや。立木くんは、綺麗な虹とか見たことある?」
あの日みた虹は綺麗だった。というより、あの日はじめて虹らしい虹をしっかりとみた気がする。
綺麗な半円で、色もしっかり7つに分かれている大きな虹。急な雨が上がった後の女神らしい太陽と、対になるようにそびえる幾何っぽい虹。
僕はその虹を見て、救われたような気分になった。そして、こんなんじゃまだ足りねえよ、と呟いたのだった。
こんな完璧な虹でも、全然足りない。
「んー、綺麗な虹はあんまり見たことないなあ」
僕は嘘をついた。
向かいの席の女性は、また高い声を上げて、しゃべり続ける。今度は天丼がこの上なく美味しかった話が始まった。