【新作紹介】「ガイドマップ端原」―本居宣長の空想地図に旅行する。―
君は端原という街を知っているだろうか。あるいは、上の地図はどこの地図だろうか。そう聞いても、たいていのひとは「知らない」と答えるだろう。地図を見つめて「デタラメじゃないか」と怒るかもしれない。
それもそのはず、この街は今から270年ほどむかし、延享5年(1748)3月27日に小津栄貞(後の本居宣長)という19歳の男がつくりはじめた架空の街だからだ。コミティア134で頒布した新作「ガイドマップ端原」は、その空想地図とその街に構想された物語を現代の観光パンフレット風にしたてたものだ。
『端原氏城下絵図』に書き込まれた社寺の数、およそ250以上。武家屋敷の数は名前がついてるだけで230ほど(名前の無いものを含めると二千数百を超える)。この街に住む人々の歴史は「系図」の形で示されており、この街を舞台とした「端原宣政」を中心とする一大歴史絵巻を構想している。まさに前代未聞の空想都市と言えるが、こんなものを人に見せようものなら、「すごいけどさぁ…」と呆れられることは間違いないと思う。
(この端原の世界については目下その解説記事を更新中だ。)
彰往テレスコープでは、当初はこれを単なる分析記事を掲載する予定だった。というのもこの「端原氏城下絵図」については、大まかな地形や、都市のモデル(一見してわかるように京都がモデルだろうと言われている)についての研究はあったが、絵図をすべて文字に起こし、何が描かれているのかをはっきりさせた研究というのを見たことがなかったからだ。
ところが解読を進めているうちに栄貞がこの地図を作成することにかけた熱量に圧倒され、「単に分析するだけなら栄貞は怒るんじゃないだろうか」と、変な事を思ってしまったのである。僕の年齢は栄貞と同じ19歳。同い年の栄貞がこれだけ熱量をかけたのだから、こっちも負けるわけにはいかない。チャチャッとできる文字起こしなんか栄貞の前では威張れることでも何でもないのだ。
この地図の内容を理解しやすく編集するにあたって、まず地図を現代化し、さらに観光ガイドとすることにした。現代化の目的は現代人に市街の風景を想像しやすくするためだ。僕は江戸時代の町並みなんて歩いたことはないから(誰だってそうだ)、江戸時代の風景を架空の地図の中に思い描くことが難しい。それよりかは現代の架空地図を現実に存在する街らしくイメージ方がずっと楽だ。観光ガイドにした理由は、地図の内容を分類するに格好のフォーマットであることと、栄貞がこの地図を作るに先立つこと三年前に地元の観光ガイドを作ったという故事があるためだ。
こういうわけで、「小津栄貞(本居宣長)の空想地図を現代化し、観光ガイドにしたてる」という突拍子もない企画がうまれた。本居宣長記念館さんに連絡したところ、こんな無茶苦茶な話に対しても寛大に受け止めてくださった。
小津栄貞の書いた「系図」と「絵図」は単なる創作メモの類いでは無い。これ自体が作品として完成する仕掛けがある。
例えば系図には、この国の君主「端原宣政」の事績が書き込まれているが、彼がいつ死去したかは書かれていない。それもそのはずで、系図には「正元年」という年以降の事は書かれておらず、どうやら系図は「正元年に端原朝廷が編纂したもの」らしいのだ。それを示すように巻頭には「御代万々歳」という君主への賛辞が置かれている。
この「正元年」は、「系図」内の「大系図」によれば、日本で言うところの鎌倉時代頃にあたるらしい。つまり、小津栄貞は平行世界の古文書を作ったのだ。
原本がこういう設定をもっているため、このガイドマップにも「1985年に発行され、2060年に火星で発見されたもの」という設定をつけた。
このガイドマップは『彰往テレスコープミュージアム 2号』の予告編として内容から抜粋したものだ。『彰往テレスコープミュージアム 2号』ではこのガイドのもう少し詳細なものと、栄貞の原本についての解説と、さらに詳細な地図(というのも、あまりに書き込みが多いため、A3サイズには収まりきらず、大半の寺院名や屋敷名をカットした)を載せる予定だ。(惟宗)
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