傘。
「…ふぅ」
仕事終わりの帰り道。ひとつ、息を吐く。空は曇っていて、夕焼けは見えなかった。
効率良く仕事を終わらせ、帰る。残業なんてしない。寄り道もしない。飲み会も女子会も、断り続けたら誘われなくなった。
それで良かった。無駄なことは嫌いだった。無駄を省いて効率よく動き、時間もお金も、自分自身も最大限に有効に使いたかった。
少し、早歩きで帰る。出来るだけ早い電車に乗りたい。歩きながら、頭の中でこのあとのスケジュールを確認する。家に帰って仕事の整理をしたあと、部屋を片付けて軽いトレーニングをし、風呂に入ってメイクを落としたら、晩御飯を作って…。そう、頭の中で組み立てる。その時、
ぽつ。ぽつ。
「…え、うそ」
急に降り出した雨はすぐに激しくなり、「ざーーーーー」と大きな音を鳴らした。逃げるように、近くの店の軒先に入る。
「参ったなぁ」
朝の天気予報では言っていなかった。出来るだけ無駄を省くため、荷物も最小限。折りたたみの傘なんて持ち合わせていない。
どこかで傘を買うか迷った。出来れば、無駄な出費は抑えたい。しかし、雨もいつ止むか分からない。
「この時間こそ、無駄か」
そう考え、辺りを見回してコンビニを探す。しかし、近くには見当たらなそうだった。
「どうしよう…」
ふと、いま自分が軒先を借りている店の中を覗く。
「…雑貨屋さんかな?」
中は、優しい明かりが照らしていた。
「傘、あるかな…」
しかし、あったとしても、コンビニの安物よりも確実に値段は高いだろう。無駄な出費にまた迷うが、再び時間を無駄にしない選択をし、中に入った。
「いらっしゃいませ」
若い男性の店主が出迎える。「あ、どうも…」と頭を下げる。外から見た優しい光の中に包み込まれ、居心地よく感じた。
「どうぞ、ごゆっくり見て行ってください」
「あ、はい」
ごゆっくり見るつもりはない。傘を買ってすぐに帰る。
「…鏡が多いですね」
「鏡って好きなんです。優しいですから」
「鏡が優しい」という不思議な返事に少し興味が沸いた。しかし、今はそれどころではない。「傘、ありますか?」と用件を伝える。
「傘…ですか」
店主が聞き返してくる。「あ、なかったら、別に…」と、店を出ようとする。
「いえ、あるには、あるんです」
そのあいまいな返事に少し苛立ちながら、「どこですか?」と聞く。
「こちらです」
案内されるまま、ついていく。いくつかの傘が、ハンガーラックにかけられている。その中から適当に、黒い傘を手に取った。
「じゃあ、これください」
「…これ、ですか」
「はい」
「すぐ、使われますか?」
「はい」
外を見れば分かるだろう。先ほどからの店主のはっきりしない態度にイライラした。
「なんですか?」
「ちょっと、広げてみてください」
そう言われ、苛立ちながら傘を開いた。
「…あ!」
そう声が出る。傘を壊してしまった。勢いよく開いたつもりはなかったが、傘が逆に開いてしまった。
「すいません、弁償します」
そう、頭を下げる。傘を壊した申し訳なさと、また重なった無駄な出費に気持ちが落ち込む。
「こちらこそ、ごめんなさい。驚かせてしまって」
しかし、逆に、店主が謝ってきた。
「え?」
「この傘、これが正解なんです」
店主が笑う。傘をもう一度よく見た。傘は、天井に向かって開いていた。これでは、傘の役割を果たさない。
「こーやって、雨水を貯めるんです」
店主が、その傘をさして店内を歩く。すこし、楽しそうだった。
「なんのために…?」
「小学生男子の行動に、意味なんか求めちゃだめですよ」
「…え?」
「女性はやらないでしょうけど、男の子なら昔、みんなやったはずです」
そう言われ、小学生の頃、同級生の男の子がそうやってずぶ濡れになって遊んでいたのを思い出した。
「それ用の傘ってことですか?」
「そうです」
「…店主さんも、昔?」
「もちろん」と店主が少し恥ずかしそうに笑う。その笑顔につられ、思わず笑ってしまった。
「すいません、うちの傘、こんなのばっかりなんです」
店主が逆に開く傘を閉じた。
「全部、逆に開くんですか?」
「いえ、そうじゃないんですけど…」
ハンガーラックにかかっている傘を見た。その中から、青と白の模様の傘を手に取る。
「じゃあ、これは…?」
「これはですね」
店主が、自分に向けて傘を開いて見せた。傘には、青空が描かれている。
「わ、キレイ」と感想を漏らす。
「この傘の作者は、雨の日でも青空の下を歩けるようにと傘に青空を描いたんです」
「…ステキじゃないですか」
「見上げてみてください」
そう、差し出された傘を受け取り、傘の内側を見上げた。真っ黒だった。
「あれ」と、また笑ってしまう。
「はい、真っ暗闇なんです」
「…残念ですね」とまた笑う。しかし、なんだかこの残念さは、楽しかった。
「じゃあ、これは…」
と、次の傘を手に取る。
「これは、すごく機能的ですよ」
店主が、少し自慢げに言う。そして、持ち手に何か金具のついたビニール傘を開いた。傘の部分に、銀色のシートがところどころ貼られている。
「ここから充電出来るんです」
店主が持ち手を示す。USBの差し込み口があった。「え、すごい」と驚く。
「これ、この銀色のシートがソーラーパネルになってて、太陽光発電できるんです」
「え、本当にすごい」
本当に感動していた。そんな便利な傘があったなんて。
「これのどこが残念なんですか?」
「傘をさす日っていうのは…?」
「…あ、」とまた笑う。傘を使うのは雨の日だ。太陽は出ていない。
「あ、じゃあ、日傘として使えば…」
「ビニール傘なんですよ」
シートの隙間から、紫外線は遠慮なく入ってくる。
「…残念ですね」
「えぇ、本当に」
二人で、笑いながら頷きあった。
「じゃあ、これも…?」ともう一つのビニール傘をとる。
「いや、これはまたちがうんです」
そう言われ、そのビニール傘をよく観察する。傘をまとめる紐のボタンに鍵がついていた。
「カギ?」
「盗難防止に、鍵を付けたんです」
「あ、これなら盗まれませんね」
「いえ、簡単に盗まれました」
「なんでですか?」
店主が、傘をまとめるビニールを引きちぎった。
「あはは!」
思わず、少し大きな声で笑う。
「これじゃ、だめですね」
「えぇ、ただのめんどくさい傘です」
「これは?」
一つだけ、開きっぱなしの傘があった。見たところ、変わったところはなさそうに見える。
「これは、『折りたたまない傘』です」
「…どういうことですか?」
「あの小さい傘、なんて言います?」
「折り畳み傘」
「でも、普通の傘も、折りたたむじゃないですか」
「…確かに」
開いた傘を閉じるのは、確実に折りたたんでいる。
「そこに疑問を持った作者が、『折りたたまない傘』を作れば、『折りたたみ傘』が成立するって考えたみたいです」
「なるほど」と頷いたあと、しばらくして「ふふ」と笑みがこぼれた。じわじわ来る面白さだった。
「…なんだか、さっきのとは違う意味でめんどくさい傘ですね」
「そうですね」
「じゃあ、これは」
「これは、雨水をろ過して飲み水に出来るんです」
「え、すごい」
「いや、傘ですから」
「…あぁ」
そうだ、傘だ。ろ過されて雨水が落ちたら意味がない。
「そもそもを見失ってました」
「きっと、作者もそうです。もう、見失ってるんです」
「…なんで、こんな傘ばかり?」
なぜ、こんな無駄な傘ばかり集めているのだろう。
「なぜなんでしょう。自分でもわかりませんけど」
そう言って、また笑う。
「でも、なんか、楽しいので」
店主が、はっきりとそう言った。その楽しさは、実感として理解していた。
「いま使う傘を買いに来られたんですよね?」
「あぁ、はい」
「良ければ、これ、差し上げます」
店主が、ビニールが引きちぎられた傘を差し出してきた。
「もう、故障品ですので」
「いいんですか?」と手を伸ばす。ただでもらえるなら、無駄を省ける。しかし、伸ばしかけた手をひっこめた。
「やっぱり、どれか買います」
この無駄を、楽しんでみたいと思った。
「いいんですか?」
「はい、どれか欲しいです」
「なら、ありがとうございます」
そして、青空の傘を選んだ。
「これにします」
「そうですね。これが一番まともかもしれません」
「どうも、ありがとうございました」
店主が店の扉を開けてくれる。
「また、仕事の帰りに寄ってもいいですか?」
「いつでもどうぞ、お待ちしています」
そう、頭を下げる店主に見送られ、店を出た。すぐに傘をさす。見上げると、真っ暗闇だった。そのことに、また小さく笑った。
無駄な機能を持った、残念な傘たち。しかし、なんだか楽しい時間だった。
「無駄も悪くないな」
そう思いながら、小さな青空の下を歩いて帰った。