脚本骨組み クライアントワーク 安楽死について

安楽死についての動画のお仕事を頂いた

先ず僧侶の率直な意見

皆さんは、積極的安楽死消極的安楽死
違いをご存知でしょうか?

消極的安楽死について

消極的安楽死って、ああもう逝くんだな
って人を、そっとしとくってことだと思うが
人類五万年間の歴史、ほぼそうやって命のバトンを
わたしきたのだろう
これってそもそも安楽死なのか?

人類の歴史ってユヴァルノア・ハラリ氏
サピエンス全史や、他最近の書籍でも
原始時代の5分の4を加味することが主流に
なってる、だって人類歴史ほぼ原人だから。

この西暦2000年間特に最近100年間が逆に不自然な
ことだらけなんだ、人間の本能にとって。

もう逝くなーって人を無理やり生かすことは
猛烈に不自然だ。消極的安楽死が
そもそも安楽死なのか疑問だ。

●こんな経験がある、老人介護の施設で
もう逝きそうなじいさんに
「活かすも殺すも自分達次第」と笑いながら
無理やり食べ物を放り込む、管理職
全身をかきむしり、痛い苦しい、生きたい
もがく、可哀想な状況なのは
火を見るより明らか

そんな爺さんを見て、今までありがとよ泣
本当に有り難う、好きだったぜ、大事な友達だよ
もう苦しそうだから餓死で逝こうぜ。

と思った自分と、笑いながら食べ物をかっこむ
管理職とどっちが自然だろうか。

※脱線しますが、農業文明以降脳が縮小する人類、
自己家畜化と言うそうですね、日本は、山本七平先生の書籍にあるように空気読め文化、岡本太郎先生いわく村人根性にあるように、日本では無知になること、自己家畜化することが出世の道。IT化がそれを解決します。ITに管理されるホンモノの家畜と、それを、ITを管理し作り出す、そう我々のnoteのようにITで価値を発信する“ホモデウス”ITを使用し、創りだす人にわかれるのですから。
※すみません脱線しました。


積極的安楽死について

■積極的安楽死について、この積極的安楽死を
法的に認めるか認めないかの是非が
センシティブだから世間は触れたがらないのだろうか。

まあおそらく、もう悪くなる一方だから逝きたい人を積極的に薬投与などで往生させるのだろう。

僧侶のわたしにとって、積極的安楽死を
法律的に認めることの是非、そもそも善悪で語らない僧侶的スタンスとして、賛成反対の
答えを持ち合わせていない。

仏教では、そもそも人生四苦八苦、最初っから
そういうもの、人生はお花畑じゃないよ
痛くて苦しいよ、と、真実を見つめるので
法的な積極的安楽死の賛成反対を考える機会は無かった。

クライアント様は安楽死についての活動を
クラファンをしたところ、危険思想?と
破棄されてしまったそうだ

死を見つめる、仏教で言う死随観を
危険思想…?死随観が危険思想?!

僧侶的に、善悪で物事を判断するのは慢心である

しかし、死を見つめる行為は“有益”である。

法的に積極的安楽死に白黒つけることを
真剣に考えたことはないが
死を見つめる行為自体は“有益”なので
この活動は支援していきます。

さあ、クライアント様はご自身のnoteで
近年の有名なALS女性嘱託殺人についてとりあげていますが

僧侶的に積極的安楽死の法律な白黒に足を踏み入れるならば、積極的安楽死を法的に認めてしまうと、仏教のようなミニマリズムな、プラマイゼロ、何も得ないニュートラルな幸福論に触れる機会に到達する前に死を選んでしまう勿体無さがある。

同時に法的に積極的安楽死を認めないことで、“なぜか”一定数いる利己的な人のエゴによって、誰も知られることなく、立場の弱い人の自然な死のきっかけを蹂躙される可能性が“ある”

“なぜか”人間は、利己的な人が一定数出現する。僕は専門家じゃないので何故かわからない。

ギブアンドテイク与える人が成功する時代、の書籍にあるように

キバー(与える人)テイカー(奪う人)

と何故か利己的な人と利他的な人に別れてしまう。

昔中国で人間は性善説か性悪説か論争が
あったようだが、僕はどっちもいると思う。

利己的な人は確かにいる

みんなが慈悲喜捨精神ではいきられない

必ずどこかで“ズル”が起きる。

そういった事を加味すると
法的に積極的安楽死を認めないことの
怖さは“感じます”

以上がこれから取り組む
クライアントワークへの一時的感想と
考察です。



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