
エッセイを書く、ということ。
エッセイは、むずかしい。
常々言っているし、おもっている。
たとえば、ブログやCRAZY STUDY(クレスタ)で書いているおもしろ記事のほうが、どんなに楽か、とおもう。
いや、「楽」というのは語弊がある。もちろん、おもしろいネタをかんがえたりするのはたいへんだし、ネタが思い浮かばないときはもう地獄である。
そして、実際に写真を撮ったり、身体を動かすのはおもしろ記事のほうがおおい。その点で言えば、家であれこれかんがえたことを綴るエッセイのほうが、「楽」ではある。
わたしが言いたい「楽」とは気持ちの問題である。
おもしろ記事は、精神衛生上よい。
おもしろい記事は、だれも傷つけることがない。
いや、ひとをひたすらばかにして笑いを取るような記事も、世のなかにはある。
ただ、わたしはそれを好まない。そういう記事をブログにはぜったいに書かないし、幸運なことに、わたしにお仕事をくださるウェブメディアの方々も、わたしにそういう記事を求めていない。ゆえに、わたしがそのようなものを書くことはないのだ。
おもしろに正解はない。そして、まんいち「つまらない」と批判をされたとしても、「ああ、あなたとはツボがちがうんだね」とおもえる。なんなら、「じゃあ、わたしよりおもしろいことやって、記事書いてみてよ。読んでやるからよ」くらいまで強気になったっていい。書き手側の心理としては、無敵にちかいものがある。
エッセイはむずかしい。
日常生活ではあまり自分の意見・主張をしないのがよいとおもう。話題にしなければ、他者と対立することはないからだ。人間関係において「沈黙は金」なのだ。余計なことを言わないに越したことはない。これは自戒を込めているが。
ただ、エッセイを書く以上ははそうはいかない。
わたしは、エッセイにおいて「鋭い言葉でなにかを痛烈に批判する」ということは、極力しないようにしたいとおもっている。
ただ、なんらかの任意の話題において、自分がこういう意見を持っている、ということを、表明しなければエッセイにならない。著者の顔の見えない文章など、読むだけ時間の無駄であろう。遠慮をしまくって、全方位に当たり障りのない話しかできないのであれば、こういう文章は書くべきではないとおもう。←これも主張のひとつだよね。
わたし個人としては、自分の所属するもの……たとえば「アスペルガー」であるとか、「母子家庭」であるとか……「学歴がない」や「介護離職者」なんかもそうか。そろそろ「おじさん」も受け入れなくてはならないかもしれない。まだ「お兄さん」のつもりなのだけど。
そういうものに対して批判をされたり、不快感を表明されても、特に腹を立てることはない。
実際に過去には「おまえは頭がわるい。まぁ母子家庭だしな」などという差別的なことを、面と向かって言われたこともあった。
そのときは、「頭がわるいのは単にわたしが勉強をしていないからであって、弟はわたしとちがって優秀である。表面的なことだけをイコールで結ぶ人間も世のなかにはいるものだな」などと内心ばかにしていた。頭もそうだが性格もわるい。
ただ、他人がどう思おうが勝手であるし、いちいち訂正したり、かみつくのも面倒である。こちらも関わり合いになる気がないので、すきにおもっていてくださいよ、というスタンスが基本だ。
友人関係においても、意見の相違はある。たとえば政治の話なんかはまぁ、一般的にタブーと言われるもののひとつであろう。
わたしは、あくまでも政治信条はそのひとのいち側面だとおもっているので、わたしと意見がちがっても、それはそれでいいとおもっている。
わたしは大の阪神ファンだが、じゃあ巨人ファンの友達はいないのか、さらに広げるならばサッカー派はどうなんだ、ということだ。特定の信条を無理に押し付けられるともちろん閉口してしまうが、それはべつに政治に限ったことではない。
はいはい、合わないところは置いておいて、ほかのところで仲良くしましょうね、というかんじでゆるっと生きているのである。
ただ、そのスタンスを他人に押し付けるわけにはいかない。
あくまでもこれはわたしのスタンスであって、自分の所属するものへの批判について、不快におもうかたがいるのは理解できる。「わたしがそうだから、おまえも許せ」などと言う気は毛頭ない。
現代の日本には表現の自由はあるが、それを見聞きして、どう思うかもまた自由である。わたしがなにを言ったところで、不快に感じるのも、いやになるのも相手の勝手なのだ。
エッセイにも正解はない。そして、ちいさなズレが、おおきな断絶になる可能性は決してすくなくはないのだ。友達を失うこわさは、ある。
エッセイってのは思考の切り売りみたいなものだ。
極力配慮して書いていても、意図せず無意識にだれかを傷つけることはある。むやみやたらに攻撃的な文章は書かないようにしてるつもりだけど、もしつついちゃったら、ほんとごめんね。
ただ、先にも書いたように、全方位顔色を伺って、読む価値のない中身のない文章や、支離滅裂なものを書いてしまうのは避けたい。
わたしは自分の顔が見える文章を、書き続けたいのだ。
ライター友達である吉玉サキさんは、ひじょうにすぐれたエッセイストである。彼女のnoteをご覧になったことがあるかたは、異論がないだろう。
ただ、わたしと彼女は別の人間である。もちろん共感できるところもたくさんあるが、中にはまったくできないところもある。
ただ、「共感」と「納得」は別である。吉玉さんの文章はたとえ共感ができない内容だとしても「ああ、わたしはそうは思わないけど、なるほど、そういうふうに感じるひともいるんだ」と納得ができる。「その理屈はわたしはつかわないけど、筋は通ってるしアリだよね」とおもうこともある。
思考の深さだったり、書き手としての技量がなせるわざだなぁ、とおもう。
そしてなにより、人間・吉玉サキという、しっかりしたものがあるという印象だ。あれだけ毎日書いていて、まったくブレないのはすごい。
その一点でもう、わたしは彼女がスキなのだ。
「わたしはぜんぜんそうはおもわない」って感情と「あ、だからそういうかんがえになるんだね」って思いは両立する。そこを結ぶのって書き手の技量だし、伝えかた、言葉の選びかただとおもうのだ。
わたしは、あたまがわるい。ふわふわした人間である。ふだん、ものごとをそんなに深くかんがえないのだ。ゆえに「それは思い至らなかった!」ということが、もう山のようにある。それこそ北アルプスの山々のように連なっている。
わたしのエッセイは思考の練習である。自分で言うのもダッセぇのでいやだが、あとで悔いの残らないように、それなりに時間をかけてかんがえるようにしている。
毎日更新など、夢のまた夢だ。日常的にかんがえるクセがついていないのだ。毎日書いていたら、かんがえが追い付かなくてパンクしてしまうだろう。ただ、苦手な分野だからこそ、あえて書いているというのはある。
だから書きます、今年も。
まだまだ未熟ゆえ、不快な気持ちにさせてしまったら申し訳ない。
どうかお付き合いいただけたら幸いです。
いいなと思ったら応援しよう!
