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フィクション、ノンフィクション

桜、満開になりました。
私の部屋からは大きな桜の木が見えて、ひとりお花見、桜の木独り占め。
これが決め手となってこの部屋を選んだ。

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まぁそんな感じのここ最近ですが。
私は大学院でアメリカ文学について勉強しています。19世紀あたりのゴシック小説というか、幻想小説というか、もともとそういう種類の作品が好きで、このジャンルを選び研究を始めました。
(結局今は若干違う内容を扱ってるけどもね!!技量が足りなくてね!!)

とはいえ簡単に「ここ!」となったわけではなく、迷走に迷走を重ね、イギリス文学に行ってみたり、女性作家にこだわってみたり、日本文学の方が向いているのではとか、今風のものを、、、とか考えて、私には何もないなと思うことが約1年続きました。
これ、大学院入ってからのお話し。
大体の人は、大学院に進学すると同時に、これがやりたい、と志を持っているのが普通なのですが、私はそういう意味でいうとかなり遅れをとっていた。
知識が、志が足りないと焦り、結果進級もままならなかった。焦らずいこうよと当時の私に言ってやりたい。
今はなんとかなっているし、今までも、なんやかんやでなんとかなってきたやんかと。

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いやまぁこんなことをダラダラ話したかったのではなくぅ。
それでね、その文学というものをやってると、ぶち当たるのが

「これってフィクションですか、ノンフィクションですか」

という問題です。
どっちでもええやん。

でもね、分析するとなると、これが重要よ!となる時が多いんだよこれが、、、。
例えば日記。
そりゃーーーーーーーもう、日記はさ、ノンフィクションでしょうよ!一択よ!と思ったそこのあなた。時代によっては違います。
かつて日記は公開されることが前提として書かれていたこともあったそうで、だから他人を意識した日記とは、完全なるノンフィクションとは言えなくなりますね。
「失恋しました。こんな人とは前から別れてやりたかったからせいせいした!」と書かれてあったとして、それは本当?
失恋したのは確かでも、実はすごく悲しかったのを隠したかったが故の強がりかもしれない。
この可能性を考えることが、私はとても楽しい。
だから最近は、分析対象とする人の日記を読み返して、小説へどれくらい反映されているのか、とか、趣味の範囲ではありますが見ております。

               ✳︎

こうやって考えるとさ、このnoteだって、ノンフィクションとは言えませんよね。
誰かの読書感想文だって、その読んだ人の主観が入っているし、#日記とハッシュタグがつけられていても、こうやって公開されている手前、完全に、純粋無垢なノンフィクションとは言えない。
虚構まみれの文章たちが存在しているというこの空間がとても面白い。

私の文章のいったい何割がフィクションで、ノンフィクションでしょうか?
もしかしてそれはもう、書き手にすら分からないことなのかもしれない。
でも、このことをを考えながら読んでみると、また違った、色々なことが見えたりしそう。


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