新井克弥『ディズニーランドの社会学』青弓社 感想
新井克弥『ディズニーランドの社会学』青弓社 を読んだ。断片的に感想を書く。
この本を読もうと思うきっかけになった記事はこちら。「情報圧によるめまい」に焦点を当てた記事。
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ディズニーランドの社会学:情報圧によるめまい
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東浩紀が講談社現代新書から出している『動物化するポストモダン』にめちゃくちゃ近い本。こことか。
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「インターネット上にあふれる膨大な数のディズニーに関する情報のなかから、それぞれ任意にディズニー情報をチョイスし、これをカスタマイズして「自分だけのディズニー世界=マイ・ディズニー」を作り上げる」
参考文献にやはり『動物化するポストモダン』あり。現代思想に興味のある人も面白く読めるだろう。
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上の引用のようなディズニー消費の方法によって、Dオタは自分の「アイデンティティー」を支える・確認している、という記述が本の後半に出てくる。「社会学」ということで「この社会(あるいはディズニーランド)はどのようになっているか」を主に描いた本だが、「アイデンティティー」といったある意味「内面的」なところに興味のある読者にとっても面白い本になっていると思われる。
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後半に「連帯感」「シンクロ」「共振」「寂しさを感じなくてすむ」などのワードが出てくる。
これは、上に引用した方法によってディズニーを楽しむ人、すなわち「マイ・ディズニー」を作り上げてディズニーを楽しむ人の目的の一つを表したものだ。
その目的とは、「マイ・ディズニー」を作り上げる人たちがたくさん集まる場所に身を置くことによる「連帯感」を感じること。
「自分の」ディズニーを極めることを通じての「他者たちとの」連帯感。
言ってみれば、自分を他者から閉ざし自閉的になっているにもかかわらず、というかだからこそ、他者たちとの連帯感を持つことができる、ということだ。
「厳密には「連帯」ではなく、やはり「共振」、シンクロでしかない」「相手そのもの、つまりその内実については眼中にない」と著者が言っているように、あくまでも自閉的であるのだが、「共振」「シンクロ」という言葉遣いをしていることは面白い。
連帯感を「単なる錯覚」などとは捉えず、共振・シンクロといった「連帯に近い何か」は生じている、という捉え方をしている。また、「共振」という語からは、「連帯」という語が持っている「意識的」「意志的」な雰囲気とは別のものが感じられる。
以下は僕の勝手な感慨のようなものだ。自閉的になって「マイ・○○」を楽しむようなオタク的形態の拡がりは、日々の他人との関わりにおける人々の疲弊の大きさを物語っているように思われる。職場や学校で他人に常に気を遣い神経をすり減らした人々が、せめてプライベートでは他人を遠ざけたい、ということで自閉する。そして、そのような自閉した人々の中に入ることで癒やされる。そのような人々は表立って互いにコミュニケーションを取ったりはしないが、「共振」という形で無意識レベルの繋がり(とも言えない繋がり)を生む。その「共振」には、「あぁ、あなたがたも大変な日常を過ごしているんだね、分かるよ」というような(これも無意識レベルの)感覚が伴っているような気がする。その感覚のそれぞれの人における共起が、癒やしの効果を生んでいるように思う。
とはいえ一方で、そんな感覚はないのかもしれないとも思う。そんな感覚はない、べつに日常で神経をすり減らしてはいない、それでも現代人は自閉的になるのだ、というのもありうるし、それはそれで面白い。
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