任天堂、ピザを焼く ―とあるアメリカの文化に対する一考察―
1.魅惑なるピザ
ゲームとピザは縁が深い。1ピース欠ければパックマンになるし(ただし欠けたピザがパックマンのヒントになった、というのは完全な創作である)、ファイナルファイトではマッドギアの攻勢に圧されボコボコになったコーディの体力を大幅に回復してくれるし、マザー2でもネスのHPを回復してくれる(しかもマッハで届けてくれる)。
そんなピザであるが、かつて任天堂がピザ屋を経営していた時期があったことをご存じだろうか?
この話はすでに老舗ファミコン解説サイト「ファミコンのネタ!」内にて詳しく解説されているが、この記事では別方向の切り口で解説していくことにする。
まず、この事実に至るまでの歴史をなぞっていこう。任天堂という縦軸の歴史に対して、もう一つ横軸の歴史が必要となる。そのキーマンが、ノーラン・ブッシュネルである。
2.ブッシュネルとピザ
ブッシュネルは「ビデオゲームの父」と称され、今日に至るアーケードビデオゲーム、家庭用ゲームの市場の土台を作り上げた偉人である。1972年にATARIを創業した彼はアーケードゲーム「ポン」の大ヒットにより影響力を高め、大儲けした。しかも彼はそれ一作で終わらず続けてヒット作を世に出した。その一つがポンの家庭用版である通称「ホーム・ポン」である(製品版はポンとなった)。
この時先行して史上初の家庭用ゲーム機である「オデッセイ」が世に登場しているが、実はこれはセールス的に成功したとはいえなかった。もともとポンは家庭用ゲームとして開発されてはいたのだが、コストがかかるためにアーケード用に変更せざるを得なかった事情があった。そのため改めてコストダウンを計ったホーム・ポンを作り出すことになったわけだが、オデッセイが思ったよりも売れなかった、と判断していた小売たちは難色を示した。
唯一シアーズ社のスポーツ部門(シアーズには玩具・電子機器部門が存在するが、そちらはATARIの営業を断った)が興味をもち、ATARIに一定期間の独占販売権を売ってくれるよう打診してきた。
当初はATARIもこれを渋っていたが、他に売ってくれそうな小売が結局現れなかったためにシアーズと独占契約を結ぶことになった。ホーム・ポンの注文は15万台となったが、実はこのときATARIは15万台のホーム・ポンを作れる余裕が全くなく、工場拡張のための資金借り入れに奔走することになる。
シアーズ社はホーム・ポンを75年から76年の頭にかけて「テレゲーム」と名付けて売り、15万台綺麗さっぱり売り切った。独占販売期間が終了したあとはATARI自身がホーム・ポンを売り出したが、続けてアーケードで展開していた「ポンダブルス」「スーパーポン」「ピンボール」といったゲームをどんどん家庭用ゲーム機として作り直し、発売していった。アーケードだけではなく、家庭用ゲーム市場というものが急拡大していった。
さらにATARIはBreakoutを世に放つ。これはブッシュネルが最後にデザインしたゲームで、あのアップル創設者スティーブ・ジョブズも関わっている(作った、というわけではない)。Breakoutは76年に発売され、大ヒットを記録した。
ATARIの栄光と名声は不動のものになるように思われたが、その足元で崩壊の兆しの音がじわじわと大きくなりだしていった。
ブッシュネルはATARIをより大きく、より利益がでるようにしようと企んだ。76年の家庭用ゲーム市場において、フェアチャイルド・カメラ&インスツルメント社の「チャンネルF」が登場していた。これはCPUが内蔵してあるカートリッジを差し替えることで、違うゲームがプレイ可能となる家庭用ゲーム機である。
ブッシュネルはこれに対抗すべく、ATARIでカートリッジ交換式家庭用ゲーム機を製作すべく動いた。チャンネルFより高性能で、より低コストな「ATARI VCS(後にATARI 2600と改名する)」を設計し、売り出す計画が進んでいく。
しかし家庭用ゲーム機を大量生産するに至って多額の資金が必要となる。株式公開して資金を募る方法があったが、当時の株式市場は低迷していたため無理があった。そのためどこかの大企業に直接ATARIの株を買って貰う手段にでた。MCA(ユニバーサル)社やディズニー社に声をかけたが反応は今ひとつであった。唯一反応があったのはワーナー・コミュニケーションズ社であり、そこはビデオゲーム市場という未知なるものに将来性を見いだしていた。
交渉は4ヶ月に及んだが、76年10月にワーナー社がATARIを買収することで合意した。買収金額は2800万ドル。経営陣と各部門は変えずそのまま。ブッシュネルはこのときATARIの会長だったが、在籍したままで、ブッシュネル個人には1500万ドルが入り、億万長者となった。
77年にはVCSへの発売に向けて動く一方で、ブッシュネルはもう一つの構想を練っていた。それが「ピザ・タイム・シアター」である。
ブッシュネルはアーケードゲーム機が置かれている場所を改めて見た。そこはボーリング場であり、バーである。そしてそこでは、子供たちが自分たちの作ったゲームを遊んでいるところを見たことがない、という事実に気がついた。
いけない! 子供たちにこそ、ゲームは遊ばれなければならないのだ!
実はブッシュネルは大学卒業後、何回かディズニーの就職を希望していた。しかし就職は実現できず、遊園地のゲーム部門マネージャーとして働いていた過去があった。家族連れ、幼い子供向けのゲームの提供場所があっていいはずだ。いや、あらねばなるまい。ないのならば、私が作る!
ブッシュネルはATARIを動かし、「チャック E. チーズ ピザ・タイム・シアター」を立ち上げた。これはゲームセンターと、ピザ屋と、テーマパークが合体したような場所だった。家族連れできた客はピザを注文し、そのピザの待ち時間に置かれているゲーム機で遊ぶことが出来、さらには退屈させないよう機械で動く動物たちの等身大人形があちこちに配置され、楽しい音楽が鳴り響くようになっていた。
ピザが届いてからも子供たちは人形たちのショーを楽しむことができた。さまざまな着ぐるみたちが子供たちのそばにやってきて握手をしてくれた。その光景はあっというまに、多くの子供たちを夢中にさせた。
子供たちは一度来ただけではその魅力を味わい切れてないことに気がつくと、再度の訪問を親にせがむことになった。ピザ・タイム・シアターは稼働はじめた77年度から大成功を収めた。
ところが、である。こうした成功例の一方で、肝心のATARI VCSは不振だった。77年10月に発売したVCSは、チャンネルFの他、RCA社の「スタジオⅡ」、マグナボックス社の「オデッセイ2」、コレコ社の「テルスターアーケード」と競合した。77年のクリスマスシーズンには、これだけ多数の家庭用ゲームハードがぶつかり合ったのである。
市場は混乱し、その一方で遅れてやってきたバリー社が「プロフェッショナル・アーケード」を78年2月に発売したものだから、余計に市場の混乱は加速した。コレコ社は見切りをつけ、1月にはテルスター・アーケードを在庫処分にかかっている。
ATARIはVCSを40万台製造したが、年内でこれをすべて売り尽くすことは不可能で、VCSは在庫として残ってしまった。ATARIの親会社であるワーナーは次第に焦り始めていった。てこ入れとして78年2月にATARIの家庭用ゲーム事業担当本部長としてレイモンド・カサールなる人物を送り込んでいる(米国最大の繊維会社にて経営手腕を振るっていた実績があった)。
(なお、この説は「ゲーム・オーバー」内にて取られている説だが、異説もある。「1977年のクリスマスにはVCSは35-40万台売れた。しかし生産上のトラブルで追加納品が遅れ、売上が伸び悩んだ。その結果期間中に2500万ドルの損失を出してしまった」というもの。この説は「ちょっとは正しいゲームの歴史」にて紹介されている海外のゲーム研究サイトから。なお、このときポンの家庭用ゲーム機が倉庫に山積みであったとのこと)
https://www.gamedeveloper.com/business/atari-the-golden-years----a-history-1978-1981
ATARIとしては業務用はともかく、家庭用がとにかく不振でどうしようもない、といった状況だった。その上、カサールは生真面目でビジネススーツを着込んでATARIに出勤していた。ATARIは当時、非常に自由気ままな社風だった。服装は自由、ジャグジーに浸かりながら会議をし、工場内ではマリファナの香りがプンプンとしている……という、自由気ままといっても限度ってものがあるレベルであった。
もちろんそんなATARIとカサールの相性は最悪だった。ブッシュネルも次第に自分の意見が通らなくなっていくATARIに嫌気が差していった。そこで一計を講じた。自らVCS撤退、事業中止を進言し、重役会から解任されるように仕組んだ。ブッシュネルはワーナーとの契約で、解任された場合は毎年10万ドルずつ貰えるが、自ら退任した場合は何も受け取れない、という条件があったため、このような真似をする羽目になった。結果ブッシュネルは自ら作り上げた会社から見事追い出された。退任から五年間は、ATARIと競合する業務についてはならない、という条件も付け加えられて。
(ただしブッシュネル自身は後年、「ピンボール事業の撤退およびVCS本体の値下げと対応ソフトの値上げ(撤退、事業中止ではない)」を提案したことがワーナー社との決裂を生んだと証言している。ワーナーの副社長であったエマニュエル・ジェラルドは「ブッシュネルはVCS事業の撤退を主張した」と証言した。「The Ultimate History of Video Games」より)
78年、ブッシュネルが解任されたあとのATARIは、どんどん古参のスタッフが辞めていった。その上カサール自身も率先して古参のスタッフを解雇していった。
それでも二千人以上の従業員は維持していたが、カサールはどんどんとATARIを「まともな」会社にしようと努力を続けていった。自由な社風は一掃され、勤務条件に規則が重なるようになっていった。そして経営陣はゲームをプレイすることはしなくなっていった。仕事中にゲームで遊ぶなんて、そんな暇はないのだから。79年にはカサールはATARIのCEOとなった。
そんなATARIを背にし、ブッシュネルはどうしようか思案した。この時点でブッシュネルは億万長者であるが、まだ35歳である。引退するには早すぎた。
彼はATARIと交渉し、ピザ・タイム・シアターを買収したいと申し出た。ブッシュネル去りし後のATARIはピザ・タイム・シアターのようなビジネスにまったく興味を持っていなかった。
無事、ブッシュネルは買収に成功し、ピザ・タイム・シアター社として立ち上がることとなった。この時点でもピザ・タイム・シアター自体の売上は好調だった。
そしてブッシュネルはピザ・タイム・シアターの事業拡大を狙い、フランチャイズ化計画を打ち出した。この契約にロバート・L・ブロックという実業家が興味を持った。彼はブッシュネルと契約し、16の州に280のピザ・タイム・シアターを作る計画を発表した。これで一気にピザ・タイム・シアターは広くアメリカに展開する事業になるはずだった。
ところが、である。このブロックは契約の際に、ブッシュネルに「このアニマトロニクス(動物ロボットを活用した技術)は最高峰の代物で、しかも今後さらに良くなっていく」と説明を受けていた。しかし契約締結後、彼の耳にもう一つ別の会社の存在が入ってきた。それがクリエイティブ エンジニアリング社である。
このクリエイティブ エンジニアリング社へ実際にブロックが訪問したところ、その出来映えの違いに衝撃を受けた。ブッシュネルの作るアニマトロニクスが、まるで子供のお遊戯に見えるほどに差があったのだ。ブロックは次第に、クリエイティブ エンジニアリング社が他の会社と契約し、恐るべき競争相手として現れることを恐怖するようになった。ピザ・タイム・シアターシリーズ第一号店がオープンしたあとも、彼の恐怖はおさまることはなかった。実際、彼らの技術力は確かなものだった。後年彼らは自前で「もぐら叩きゲームマシン」を作り上げることに成功している。
クリエイティブ エンジニアリング社への訪問から二週間後、ブロックはブッシュネルに苦情の電話をいれた。
「いったいどういうことだ。貴方は最高のアニマトロニクスを提供する、そのうえ今後はさらに良くなると言っていたが、遥かに高いレベルのアニマトロニクスが、もうすでに他の会社にはあるじゃないか!」
そのままブッシュネルに対して共同開発の契約の無効を通達したが、ブッシュネルはこれを断った。決して虚偽の説明はしていない、契約は有効であると。しかしブロックは納得がいかなかった。彼は有能な経営者であったため、不安要素を見逃すわけにはいかなかったのだ。
その結果、1979年12月、ブロックはブッシュネルとの関係を断ち切った。ピザ・タイム・シアターは我々のパートナーではない。我々のパートナーは、クリエイティブ エンジニアリングである。
そのとき、ピザ・タイム・シアター二号店はカンザスシティにて開店準備中だった。そして二号店にピザ・タイム・シアターの店舗什器とキャラクターらがやってきたが、ブロックはこれをそのまま送り返してしまった。二号店は新たに「ショービズ・ピザ・プレイス」の一号店として誕生した。
この出来事はブッシュネルを怒らせるのに十分過ぎた。ブッシュネルはブロックを契約違反で訴えるが、同時にカウンターとしてブロックはブッシュネルを虚偽表示で反訴した。こうした法廷での殴り合いの一方で、お互いが大量出店を図り、競争をはじめていった。二社はライバルであり、負けてはならない宿敵であった。
ところがこの競争は吉と出る。この時代、ゲームの黄金時代が到来しはじめていた。80年1月に、タイトーから許諾をうけATARIがVCS用に「スペースインベーダー」を移植して発売したところ、これがヒット。残っていたVCSはすべて無くなり、むしろ増産する有様だった。これを期にATARIはVCS向けにどんどんとゲームを移植していった。
そして「ミサイルコマンド」「アステロイド」といったATARI製アーケード用ゲームがヒットしていく。
そんな状況であるために、楽しい新作ゲームをしながらピザを待つ、という形態は広く子供たちに受け入れられていった。ピザ・タイム・シアターとショービズ・ピザ・プレイスは意識的に互いが見えるように店舗をつくっていったので、子どもたちに「どちらに行こうか?」という意識を作ることに成功した。もちろん、どちらかに行ったら、今度はいかなかったもう片方にいきたくなるものだから。
二者間の競争はショーと、アニメーションの品質をどんどんと上げていった。そしてピザ・タイム・シアターは1981年に上場したため、ブッシュネルの懐を7000万ドルまで増やすことに成功した。
この時、ブッシュネルは他者にピザ・タイム・シアターの経営を譲ることにし、別の事業を手がけることにした。ピザ・タイム・シアターは競争相手がいるものの、拡大を続け、黄金期に入ったと思われていた。
任天堂がこの事業に目をつけたのは、ちょうどこの頃にあたる。
3.任天堂とピザ
時計の針を少し巻き戻そう。ここから任天堂の話となる。
任天堂はもともと花札屋であることは有名である。しかし、ゲームメーカーとして花開く前に、インスタントライスや、コピー機、ベビーカーの開発といろいろと手を広げていたことはご存じだろうか? 任天堂は色々と手を広げ、失敗していった。これは3代目社長山内溥が行ったもので、どうやら「花札屋のぼん」という回りの評価が気になっていたため、花札の単品経営からの脱出を目論んでいたらしい。
これらの事業は失敗に終わったが、同時に開発陣に対してノウハウを積み重ねることに成功した。
そして70年、任天堂は「光線銃シリーズ」を発売する。銃に備えてある引き金を引くと銃身の中にある豆電球が光る。その光りを受けて、的の中心にある太陽電池が電流を発生させる。そしてそれをトランジスタが増幅させてモーターが動き、結果、的のまわりがくるくるまわる、的であるライオンが吠えるというおもちゃだった。
実はこの太陽電池はシャープ製だった。これが縁で、シャープの半導体事業部にいた上村雅之は任天堂に移ることとなった。この後、上村雅之はファミリーコンピューターの設計に携わることになる。
こうした電子機器を流用したおもちゃの開発は、着実に任天堂にゲームへの理解度を深めさせていった。1973年にはこの光線銃を発展させた「レーザークレー射撃システム」を開発し、ブームが去ったあとのボーリング場の跡地を利用して新たなレジャー施設として運営を始めた。
ところがこのレーザークレー場は失敗する。73年10月に起きたオイルショックを期に、一気に客足が遠のき、貰っていたはずの注文も次々にキャンセルとなっていった。翌年には光線銃ゲームの幅を広めるべく、プロジェクト投影方式ゲーム、「ワイルドガンマン」や「スカイホーク」を開発し、販売を行ったが、高評価を得た反面、大ヒットという売上には至らなかった。
行き詰まりを見せていた任天堂だが、77年に家庭向けにテレビゲーム6,テレビゲーム15を開発し、発売したところこれがヒット。また78年にはコンピュータオセロなるアーケードゲームを発売し、大型施設用ではない、一般筐体のゲームにも展開していった。
スペースフィーバー、ブロックフィーバーという他社のクローンゲームを手がける一方で、山内社長は次第にアメリカ進出を考えるようになる。それは夢物語ではなく、実現可能な計画であるはずだった。それには信頼できる、優秀な人材が必要だった。山内には、心当たりがあった。
それは自分の娘婿、荒川實である。
荒川實は京都の出で、父の和一郎は四代続いた繊維業を営み、母のミチは宇多天皇(第59代天皇)の末裔で、初代京都市長はミチの祖父である。そしてミチの父は有力な国会議員であった。つまり荒川家は名門中の名門である。
そんな荒川實は次男であったため、後を継ぐ必要がなく、自由に生きることが可能だった。京都大学卒業後、アメリカに飛び、マサチューセッツ工科大学へ入学し、土木工学を学んだ。帰国後は丸紅に入社し、世界を飛び回る商社マンとなった。
1972年に荒川は一人の女性と恋に落ち、結婚する。その相手は山内陽子。任天堂社長、山内の娘である。気難しい父から結婚の許可が取れるか、陽子は心配していたが、山内はむしろ「結婚するなら早くしなさい」と促した。山内は荒川家に一目置いていたからだ。
結婚後、二人でいる時間はさほど長くなく、荒川は海外を転々としていた。77年にはカナダへの転勤話がでたが、これに対し陽子が会社に直談判し、単身赴任ではなく陽子同行の転勤となった。二人でカナダのバンクーバーに移り住み、そこでピーター・メーンという隣人と仲良くなった。メーンはこの東洋から来た隣人に友好的で、家族同士の付き合いを続けた。これは荒川らがバンクーバーを離れることになった80年まで続き、そしてその後も手紙のやり取りを欠かさなかった。
1980年、山内は自分の娘婿を口説きにかかった。任天堂はアメリカに進出する。その販売会社を、お前に頼みたい。お前に全てがかかっている──と。
以前、荒川は義父からマレーシアに立てる工場をまかせたい、という要望を断ったことがあった。しかし今度の熱の入り用は先のそれとは違っていた。なにせ荒川は英語が出来る上に現地人とのコミュニケーションが上手く、商社の経験がある。山内から見てあまりに有望すぎる人材だった。
結果、荒川は山内の要望を受け入れ、任天堂へと入社することとなる。NINTENDO OF AMERICA(NOA)の誕生である。荒川はバンクーバーから離れ、アメリカに住むことになった。
ところがアメリカに移住早々に荒川はミスを犯す。船便でゲーム筐体を3000台送るように手配したのだが、そのときNOAの本社はニューヨークにあった。日本からニューヨークは船便で4ヶ月かかってしまい、その間にすっかりゲームの流行はかわってしまって、3000台頼んだゲームは陳腐化が進んでしまい、1000台しか売れなかった。
困り果てた荒川は義父に助けを求めることとなる。ひとしきり罵倒の言葉をバカ婿に浴びせたあと、山内は手助けのためにゲームを社内の新人デザイナーに作らせた。
そのゲームこそ、「ドンキーコング」である。
荒川は西海岸のシアトルにNOAの本拠地を移動させ、ドンキーコングを受け取った。そこから飛ぶようにドンキーコングは売れ、あっというまに義父に追加生産を依頼するようになった。ドンキーコングは日本でも売れ、任天堂の名を知らしめた上に、借金だらけだった財務の健全化に貢献した。
NOAは農地を買収し、そこに新社屋を建てた。三階立てで、新しい倉庫と生産工場も建てた。それらの支払いは現金で一括払いだった。1982年、ドンキーコングJrや、パンチアウトといったゲームを発売し、ヒットしていった。アーケード市場は活発であり、任天堂はその波に上手く乗れていたのである。
そんな中、山内から荒川に対して一つの指示がでた。
──日本でピザ・タイム・シアターのフランチャイズ店を開こうかと思うので、詳しい奴を送って話を聞いてきてくれ。場合によれば会社ごと買収することも考える──
もともと、ピザ・タイム・シアターは任天堂製のゲーム機を買ってくれる得意先であった。そのうえ任天堂はこのときゲーム&ウオッチの大ヒットの恩恵を十二分に浴びたあとだった。借金をすべて返し終えたあとも、まだ手元に十分な金があった。その上、ゲーム&ウオッチは他社の模倣品が次第にできはじめた頃だった。もう当てにはならない。次なる計画に移らねばならなかった。
山内がピザ・タイム・シアターに目をつけた理由はいくつかある。まず、新作ゲームのモニター先として活用できる。そこに新作ゲームがある、とわかれば客足は伸びるだろう。そしてその反応を直に、作る側の人間がみることができる。これほど確実な方法はない。フランチャイズ網にも目をつけた。ピザの売上げも確保できれば、申し分ない。そして何より、あのノーラン・ブッシュネルが作り上げた会社なのだから。
この義父からの特命に、山内は友人を頼ることにした。バンクーバー時代の隣人、メーンである。メーンはカナダで展開するチェーン店のファミリーレストラン「ホワイトスポット」の社長であり、その店舗数は500を超えていたからだ。彼の知識ならばピザ・タイム・シアターの内情を詳しく見抜けるに違いない。メーンは友人の依頼を引き受け、一日かけピザ・タイム・シアターの本社へと訪問し、そこの役員たちと会談をした。
ピザ・タイム・シアターはNOAからやってきた客人を丁重にもてなした。レストラン部門を担当する女性は、ピザの生地改善について話し、他の役員たちはロボット工学について、世界展開について、値上がり続ける自社株について、熱心にメーンに話した。しかしこれだけ熱心に話す役員たちの中に、ブッシュネルの姿はなかった。
メーンはシアトルに帰ると荒川に対して、彼らをこう評した。
──奴らは経営のことが何もわかっていない。あの経営陣のままでは、おそらくは生き残るチャンスは少ないだろうね──
メーンにとって、彼らは自分だけの狭い評価基準に固執し、広い視野を持っていないように見えた。従業員はそれでいいかもしれないが、経営者はもっと先を、もっと広く見なければ駄目だ。
実はこの評価は正鵠を得ていた。ピザ・タイム・シアターは黄金期を越えて衰退期、いや、没落期に入ろうとしていたのだ。そのきっかけの一つとなったのは、アタリショックである。
4.ピザとアタリショック
82年、ピザ・タイム・シアターとショービズ・ピザ・プレイスはお互いの裁判を和解で終了させることにした。ショービズ・ピザ・プレイスは、14年間に渡り利益の一部をピザ・タイム・シアターに支払うことで合意した。
ピザ・タイム・シアターは拡大・拡充路線を突っ切り好決算を達成した。82年度の決算は総売上9900万ドル、店舗数200オーバー。81年では総売上3600万ドル、店舗数88店だったため、この伸びは飛躍的といえた。
山内は結局、ピザ・タイム・シアターとの契約には至らなかった。日本の地価は高すぎて、ピザ屋とゲームセンターと、アミューズメントの融合した場所の提供は不適格に思えたのだ。荒川はメーンの報告を素直に山内に伝えたので、パートナーの経営的な不安もあった。
山内は余っている資金はファミコン開発につかうべきだ、という判断を下した。
ところが荒川はNOA独自にピザ・タイム・シアターと契約を行う。そしてカナダ、バンクーバーにNOAの子会社である「Nintendo ENTERTAINMENT CENTRES」を創設し、バンクーバーの隣であるバーナビーに任天堂が経営するピザ・タイム・シアター一号店を開設した。これの売上は好調で、初年度の売上は単体で300万ドル、利益は70万ドル。上手く行きすぎるほどだった。そしてメーンは後年、NOAにマーケティング営業担当副社長として入社することとなる。これは実質的にはNOAのNo3の地位だった。
ところが1982年のクリスマスシーズンに、ゲーム業界全体を震撼させる出来事が起こっていた。いわゆるアタリショックである。
生真面目なATARIは81年10月に、各小売から来年一年分のATARI 2600と、ゲームソフトの注文を先にかき集めた。売り不足を心配した小売は大量の発注をATARIに行った。「どうせ届くのは半分以下だろうし、残ったら返品すればいいや」と踏んでいた小売たちだったが、今のATARIは自由な気風が失われ、官僚主義が蔓延るきっちりとした企業だった。そっくりそのまま注文した分のソフトとハードが、きっちりと小売に届けられた。他にもゲームのブームにのっかろうと各社が新ハードを市場に投入していた。ATARI 2600によって初めて生まれたサードパーティは次々にゲームを発売していった。
市場にゲームが氾濫した。小売はあまりに多すぎるソフトを値引き販売するようになった。消費者は混乱し、かつ低品質なゲームに次第に飽きつつあった。ヘビーゲーマーは次第に高品質なゲームを求めてPCの世界に行きつつあった。売上がついに頭打ちになり、個々のゲームの価格はどんどん下落していった。返品で戻ってきたゲームはATARIの経営に打撃を与えた。メーカーが先に倒産して返品できなかったソフトは捨て値で売られるようになっていく。
市場が限界を見せ始めた。ゲームの世界に大変革が、そして恐るべき吹雪の時代が到来しはじめた。82年の12月にはATARIが下方修正を発表すると、ゲーム会社各社の株価は下落した。連動するようにトイザラスも、ホームコンピュータ関連会社も落ち込んだ。それを連日マスコミ各社は大きく報道していった。
それは拡大路線を取っていたピザ・タイム・シアターを直撃した。もともとアタリショックに先駆けて、アメリカのアーケード市場は低迷しはじめていたのである。81年をピークにゲーム一台あたりの売上は低下しはじめた。ブームの最中には一プレイ25セントを、50セントに値上げしてもある程度売上が確保できていたのに、83年では10セントにまで値下げしないといけない状態にまで沈んでいた。
そんな状況の上に、マスコミは連日ゲームが終わったと書き立てる。家庭用ゲーム市場は82年をピークに、83年では下落に転じた。そして子供たちもピザ・タイム・シアター自体から飽き始めた。売上は鈍化した。これはライバルのショービズ・ピザ・プレイス社も同じことだった。まるでゲームが出来るピザ屋という形態自体が限界に達したようだった。ブッシュネルの資産はピザ・タイム・シアターの低迷とリンクして急落し、2300万ドルあったはずが、900万ドルにまで落ち込んだ。
1983年度、ピザ・タイム・シアターは1500万ドルの損失を出した。これは経営不能一歩手前の大損害だった。しかもこの出血は止まる様子が見られなかった。メーンの見立ては、完全に的中していた。ピザ・タイム・シアターはその脆弱な経営力を露呈し、沈みつつあった。
本部がこんな状況ではあったが、任天堂のピザ・タイム・シアター バーナビー店は前述の通り好調であった。荒川が二号店の進出を検討しはじめた1984年3月、驚くべきニュースが入ってきた。ブッシュネルがピザ・タイム・シアターを辞めるという。ブッシュネルはピザ・タイム・シアターに資金を注入し続けていたが、ピザ・タイム・シアターは結局上向くことはなかった。そしてブッシュネルがピザ・タイム・シアター会長を辞任した直後、ピザ・タイム・シアターは破産した。ブッシュネルは自ら作り上げたATARIから追い出されたあと、入れ込んだピザ・タイム・シアターも崩壊を間近で見届ける羽目になった。
5.重なるピザ
破綻したピザ・タイム・シアターに救いの手が伸びた。5月にショービズ・ピザ・プレイス社がピザ・タイム・シアターを買収したのだ。その負債を受け継ぎ、キャラクターの権利を買い取ると、社名を両者を合わせたような「ショービズ・ピザ・タイム」に変更した。本部がこうしてゴタゴタとしている中、それでも任天堂経営のバーナビー店は利益を生み続けた。
1985年にリチャード M. フランクが新社長に就任し、この困難な状況からの立て直しを図った。まずは財務再建が第一で、速やかに不採算店舗は閉鎖され、店舗内の利用頻度が低いコーナーは削除された。顧客である家族の満足度を高めるための努力も惜しまなかった。ピザの品質向上、ショーの内容確認。しかしこの態度があまりに合理的なものであったため、技術パートナーであったクリエイティブ エンジニアリング社との関係が悪化していく。彼らの創作意欲と、その合理的経営方針とは相性が悪かった。クリエイティブ エンジニアリング社は所有していたショービズ・ピザ・タイム社の株式を全て売却し、少しずつ距離を置いていった(90年には完全に関係は終わった)。
荒川はこのバーナビー店の経営に満足していた。二号店の出店は結局なされなかったが、独自にバンクーバーに対して二店、ステーキと魚料理のレストランを展開するほどであった。
これらのレストラン経営は山内は好意的に受け入れられなかった。彼にはこれが荒川の道楽に見えた。後に山内は荒川に対して警告している。
──あちこちよそ見ばかりしていると、前が見えなくなるよ。
ショービズ・ピザ・タイム社はそれから復活の道を辿る。幾度となくブランドを変え、新しいキャラクターを生み出し、子供たちの心を掴もうと必死に改善を続けた結果であった。最終的に社名は一周して、一番最初の「チャック E. チーズ ピザ・タイム・シアター」の「チャック E.チーズ」となった。
バーナビー店は、87年までは任天堂が経営していたことが確定している。
しかし90年には、カナダの現地法人Nintendo ENTERTAINMENT CENTRESは合併して消失している。おそらくはこのあたりのタイミングで、経営から手を引いてしまったのではないだろうか。現在ではカナダはNOAの子会社であるNINTENDO OF Canadaが販売会社となって流通を担っている。
チャック E. チーズ社は1987年には再度拡大路線に復帰し、新規店舗を広げている。2000年には300店舗、2005年には500店舗を達成した。
6.恐怖のピザ つまりそういうことだった
さて、こんなチャック E. チーズ社だが、間接的にゲーム業界に強い影響を及ぼし、とあるヒット作を生み出す原動力となったのをご存じだろうか。
察しの良い方ならとっくにお気づきかもしれない。この「機械人形をつかったアニメーションと、ゲームと、飲食店の融合」というコンセプトは、あのホラーゲームFive Nights at Freddy'sの元ネタなのである。
さらに映画ファンならお気づきだろうが、ニコラス・ケイジ主演のホラー(?)映画、ウィリーズ・ワンダーランドも、舞台の元ネタはこのチャック E. チーズだ。
アメリカ独自に生まれたこの文化は、ブッシュネルというゲームの偉人によって生み出され、そして時間を経て世界にエンターテインメントを提供することとなった。
それに任天堂がほんの少しだけ交差した歴史を発掘した、ファミコンのネタ!! の管理人オロチ氏に最大の敬意を表す。
なお、生みの親ブッシュネルは結局1985年に破産することとなった。
─おしまい─
Special Thanks
https://twitter.com/BigAfroDogg BAD君
https://twitter.com/oroti_famicom オロチ
https://twitter.com/loderun Loderun
https://twitter.com/Area51_zek ぜくぅ
参考Webサイト
参考文献
それは『ポン』から始まった 赤木真澄
ゲームオーバー デヴィッド・シェフ
セガvs任天堂 ブレイク・J・ハリス
任天堂の秘密 上之郷利昭
ファミコンとその時代 上村雅之
ちょっとは正しいゲームの歴史 岩崎啓眞
アミューズメント産業1984年1月号
Atari Inc.: Business is Fun
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