夢、見果てたり -セガ ドリームキャストの敗北-
ドリームキャスト。セガが実質最後に発売したコンシューマーゲーム機の名である。
当時No1プラットフォームであるプレイステーション、そして長年のライバルであった任天堂のニンテンドウ64。
彼らに打ち勝つべく、セガが送り出したこのコンシューマーゲーム機は、セガに致命傷を負わせ、セガが自力で立てなくなるほどの状態に陥らせた。なぜここまでのダメージを負ってしまったのだろうか。
この記事はドリームキャストでセガがやろうとしたことを読み解き、今に至るまでの歴史を解説していく。
セガサターン時代、セガは流通改革でセガ・ユナイテッドを構築したが、結果だけを見ればこれは上手くいかなかった。(前回の記事参照)
理由はSCEがそれ以上に洗練された流通網を有していたことと、複数の問屋の集合体であるセガ・ユナイテッド内部で競合が起きてしまったこととがある。
セガはドリームキャスト発売の前段階として、この流通を改革した。SCEを見習い、セガ・ユナイテッドを統合し、一つの会社として組織しなおして競合が起きないようにしたのである。これが「セガ・ミューズ」である。
このセガ・ミューズには長年のセガの盟友であった問屋ムーミンも加わった。内部をスマートにし、問屋を経由せず販売店へと直接商材を送り込む構造へと進化させたのだ。これはSCEを見習ってのことだった。
見習ったところは他にもある。SCEは当初、流通在庫が増えすぎて値崩れが起きないよう、契約する小売店を絞り込んだ。初心会グループの取引先小売が2万5千店だった時代に、SCEとの特約店は5千店でしかなかった。それでも顧客の9割はカバーできていたというのだから、大きな問題はなかった。セガ・ミューズもこれにならった。取引先小売を5千店に絞った。
さらなる仕組みとして、ドリームキャストの在庫管理を行うため、商品用のバーコード以外にも本体のシリアルコードをバーコードとして付属し、それを読み取らせることで自動的に在庫へと反映させるシステムを構築した。そうして在庫管理を行いつつ、物流拠点を全国で6カ所用意した。こうして遠隔地でも翌日配送可能な状況にすれば、小売店は過度な在庫を抱える必要がなくなる。サターン期の反省を踏まえ、小売店には在庫少なめのリピート重視体勢を行えるような仕組みを整えていった。
つまりセガはSCEを見習い、SCEと同等の仕組みを構築し、SCEが失敗した当初の理念、「在庫は少なく、リピート重視」を自分たちの手でこそ実現してみせようとしたのである。しかしただSCEのやり方をなぞっただけではSCEと同じように失敗に終わる。ここでセガは勝負に打って出た。なんとセガは小売店に対してマスコミを通じて「返品制度を作る」と表明したのである。
SCEも返品自体は二度行ったことがあるが、あくまで特例処置であったし、特約店との契約書に返品の項目は存在せず、二度目の返品は全額買取ではなく、半額買取だった。セガが値引き販売を禁止しても、かわりに返品受入を行えば小売店の負担は非常に少なくなる。それならば主流のプレイステーションではなく、ドリームキャストをメインに据えて売り出そうとする小売店だって現れるだろう。セガのドリームキャストを売り出すに当たっての意気込みは間違いなく本気だった。これが全額買取ではなく、8割買取、7割買取あたりでもおそらく小売店は支持しただろう。
最初のつまづきはドリームキャスト発売日に起きた。いや、正確に言えば発売前から起きつつあった。あまりに早すぎるつまづきだった。
ドリームキャストはNECのビデオチップ、PowerVR2を採用していた。しかしNECの工場の歩留まり(生産効率のこと)が上がらず、なかなか出荷する数がそろわない。1998年11月発売だったが、発売年に出荷できたドリームキャストの総数はおよそ30万台。今ではコンシューマーゲーム機は世界的に同時発売が主流になってきているが、当時は日本が一番発売が早かった。つまり世界規模で30万台しか出荷されなかった。これは異様に少ない数字だった。(比較としてPS2は発売後3日で72万台生産出荷、一ヶ月で140万台生産出荷である)
消費者の財布が一番緩む年末商戦にものが入ってこない。小売はドリームキャストを推そうにも推せない状況になってしまった。しかたなく1998年発売のR4やクラッシュバンディクー、遊戯王やゼルダの伝説 時のオカリナをメインに据えて年末商戦を乗り切った。ないものは売れない。小売の世界はシビアだった。
そしてもう一つ、小売の不信感をかき立てた出来事があった。表明していた返品制度がいつの間にか消えてなくなっていたのである。
セガ・ミューズが特約店との契約を結ぶ際、様々なお願いを行った。一つはリピート重視策、もう一つは定価販売のお願い。しかし返品制度は結局契約書に盛り込まれることはなかった。これは四年前、SCEがプレイステーションを売り込みにかかるときに行い、そして大失敗に終わった契約と、まったく変わりがなかった。返品制度がないのなら、小売はなんのためにドリームキャストを推すのか。
とある販売店はセガと契約を結ぶ際、難しい顔をして忠告をしたという。
「セガさんとは長年の付き合いだから契約するし、定価販売も守るよ。だけど定価販売は売り残しの消化が厳しいから発注は絞るし、そうすると(現行の)プレイステーションは値引き販売してるから割高感でちゃって、客足は鈍ると思うよ」
しかしセガは当初の理念を追うことをやめなかった。SCE流通を調べ尽くして行く中、SCE流通と全く変わらないものを生み出した。その流れは敗因を分析し改善して再挑戦するものではなかった。SCEが犯した失敗のルートを、再度セガがなぞっているだけになった。
ドリームキャストソフトは少量入荷で種類も少なく、かつ定価販売で棚に並ぶこととなった。それは隣のプレイステーションソフトの棚と違って高級感漂うコーナーになった。しかしゲームの世界で高級感はあまり意味がなかった。オーディオや車と違って、高級感を求めるゲームユーザーはほとんどいないからだ。
そこからは悪循環の始まりだった。さほど売れないから発注は絞る。絞るから数はそろわない。数がそろわない売り場をゲームユーザーは敬遠する。予約中心の販売方法はSCEが4年前挫折を余儀なくされた。なにせすぐ隣の棚に、二番候補となりえるプレイステーションと任天堂のソフトがずらっと並んでいるのだから。予約して待つよりも、いますぐに持って帰って遊べるゲームをゲームユーザーは欲しがった。そうしてドリームキャストはどんどんと敬遠されていった。売れ残ったソフトは値引き販売も出来ずにただ居座っていたが、小売がいよいよ損切りとして特価で問屋や中古屋に流す羽目になった。そうして品数の少なく値引き販売していないドリームキャスト正規取扱店と、捨て値で売られている消費者にとってはありがたい非正規店との二極化が生まれた。
そして不穏な空気が小売店とセガ・ミューズの間で流れはじめる。セガ・ミューズとセガ本体の連携はお世辞にも上手くいっていなかった。セガが行ったキャンペーンの中に「後藤喜男キャンペーン」なるものがあるが、これをセガ・ミューズの担当者が小売店に伝えたところ、内容は「ヒミツです」。という返事しかなかった。何がでるかわからない、そういったところで興味を引くキャンペーンなのだ、という話だが、なぜ小売にまで秘密にするのか、と聞かれると答えはない。顧客は小売の命だが、なんだかよくわからないキャンペーンに対して無責任に訴求しろというのか? と詰め寄っても答えはなかった。その担当者も本社からろくな情報を得ていなく、何も答えることができなかったためだ。(なお、このキャンペーンは結局尻切れトンボで打ち切られ、謎解きはされないまま終わった。)
この状況は意外なところで打破される。1999年11月、公正取引委員会が、再販売価格維持の疑いありとしてセガ・ミューズを立ち入り検査したためだ。疑いどころか真っ黒だったわけだが(ちなみにSCEも1998年1月に同じように公正取引委員会の排除勧告を受けているので、このような目にあうのは予測できたはずである)、この時期においてセガはさすがに強硬に定価販売をお願いするような真似はしなくなっていた。ドリームキャストの増産に成功し、海外への出荷も順当に行えるようにまで改善されたが、そもそもソフトも本体も売れなくなっていたのである。セガがこれ以上現実を見ず理想を追い求めようとしたら、小売から契約を打ち切られるのは当然だった。売れない商材に発言力などないからだ。セガが小売に頭を下げる形に収まった。
ドリームキャストはPS2に先行すること一年半であるが、そのうち1年は自ら重荷を背負って走っているような状況だった。圧倒的強者PS2の発売はあと少しまで迫っていた。
少し視点をずらして見てみよう。このときのセガの流通改革に織り込まれたものとして「IT革命」があった。2000年、森首相が打ち出した施策の中にIT革命があったが、セガは時代の先を進んでいた。1998年に発売されたドリームキャストには通信モデムが標準装備されていて、インターネットが利用できたのである。セガはこれを全面に打ち出したが、小売店とのやりとりにもドリームキャストを活用しようと企んでいた。
この頃町のおもちゃ屋さん、というものは大分数を減らしていたが、それでもパソコンが導入できない、電子メールすらない小規模な販売店は結構な数存在した。そういう販売店に対してセガは「ドリームキャストを使ってください。ドリームキャストで販売店用のホームページを見ることができます。そこで新作情報や在庫・入荷情報をリアルタイムで見れますから」とアプローチを行った。今まではファックスを使っての問い合わせや、担当者が逐次報告するしかなかったが、IT化を進めることで販売店へ正確な情報を即座に届けられるようにした。同時に販売店の在庫状況、販売状況を送って貰う販売データ提携で、きめ細やかな流通を実現したかったのだ。
IT化を進める狙いは別にもあった。セガはユーザー管理をインターネットを使うことでデータベース化したかったのである。今まではゲームソフトに同封したはがきを返送してもらうことで購買層を把握していた。ただし全てのゲームユーザーがはがきを返送してくれるとは限らない。というか、大多数のユーザーははがきを返送したことがなかった。そのため「実際にどんな客層が、どんなソフトを、どれだけ買ったのか」というのがわからない、というのがこの時代のゲーム会社の悩みの種だった。
セガはこれをIT化で把握しようとしたのだ。ドリームキャストでインターネットを行うには会員登録が必要だ。このとき入れた住所と氏名と、さらに実際にプレイしているゲームを紐付けすることでより詳しいデータを取得し、一人一人に興味を引く新作ソフトの情報を別個に届けさせて拡販につなげることができるだろう。
こうした先進的なセガの取り組みは、結果だけいえば全て失敗に終わった。
まず、セガ・ミューズは店舗向けのドリームキャストの販促マニュアルをつくれなかった。そのためユーザーからの質問、ドリームキャストをインターネットに繋ぐために必要なものは? といったものは全て販売店任せになったのだった。このゲームはどういうゲームか? こんなゲームはあるの? そういった質問はすべて販売店側が頑張って習知する羽目になった。そもそもプロバイダー、インターネットといった単語を説明できる販売店は非常に少なかった。このとき電子メールアドレスを有していた小売店は、とあるフランチャイズ内の二割ほどだったという。
大々的な広告とは裏腹にセガはIT化に藻掻き苦しんだ。とある大手フランチャイズとセガ間にて受発注通信テストを行ったが、これが失敗におわる。販売データ提携ではない。受発注である。フランチャイズ内で集計した発注データを所定の形式に直し、FTPでセガに送る。セガはそれを受け取り、出荷実績を添えて送り返す。これだけのことが出来ず、結局受発注はファックスを使った。そのためデータ提携は夢のまた夢におわった。
これはセガが特別レベルが低いという話ではなかった。同時期の任天堂においては、そもそもテストしようとする気すらなかった。他社が任天堂にマーケティングデータを持って行けばよろこばれるが、何かの仕組みを構築したいだとか、こういうデータが欲しいといった要望が出ることはなかったという。任天堂自身がそういったデータにあまり重きをおいていなかったという事情もあるにはあるが、任天堂が卸している問屋や、その先の小売店がIT化を早期に実現できるとは信じていなかったという面もある。
小売店はあまりに数が多く、しかもその多数は顧客管理を行っているわけではなかった。IT化に必要なシステムエンジニアをおいているフランチャイズは極少だった。電子メールすらない小売店が多かったのも先に述べたとおりだ。彼らはIT化に対して無関心だった。顧客データを届ける話よりも、重要なのはソフトの掛け率と入荷数だった。データ提携の話を持ちかけたとある小売店のオーナーは「で、それに協力したらいくらほど支援金もらえるんです?」と聞き返してきたという。
SCE特約店にしても状況はさほど変わらなかった。SCEは先進的な流通機構を有しているため、フランチャイズ一括ではなく、その加盟店個別個別に直送するシステムを持っていた。しかもこの時点で日曜祝祭日にも対応、新品リピート問わず対応という至れり尽くせりなものである。
しかしこのシステムを実際に活用しているフランチャイズは、10にも行かなかったという。理由はいくつかある。あまりに高度なシステムのため、フランチャイズ内の仕事を大きく減らしてしまうためにフランチャイズ内から反発の声があったため、というのもあるし、それを活用してしまうとフランチャイズ外に横流ししている分がSCEに対して知られてしまう、というものであった。
肝心の小売店がこのような状況であるのだから、セガの推し進めたいIT化は上手くいくはずがなかった。
しかしセガのIT化は小売店へのアプローチだけではなかった。ユーザーに対してハードルの高かったオンラインゲームを、一気に引き下げて遊べるようにする。それこそドリームキャストが実現させたかったIT革命だった。そしてこれは一部において上手くいった。月額300円で遊べる「ぐるぐる温泉」や400円で遊べる「ファンタシースターオンライン」は非常に評価が高く、コンシューマーゲーム機においてはじめてオンラインゲームとして成功に輝いたタイトルといえた。
困ったことに成功に輝いたといっても、セガにとって大きな利益をもたらしてくれるというわけではなかった。
確かにぐるぐる温泉やファンタシースターオンラインはプレイヤーを夢中にさせた。しかし何時間、何十時間、何百時間と遊んで貰ったとしても、セガに入ってくる金は月400円で決め打ちだ。むしろ長時間遊んでもらうとセガ自身が運営費・回線費を負担している都合上、苦しくなる。ユーザーのハードルを頑張って引き下げた分、入ってくる金は絞られ結果ジレンマに陥った。
さらには困ったことに、オンラインゲームはヘビーゲーマーを夢中にさせた。長時間遊んでもらうことができた。そのため、新品ソフトを買わなくても既存ソフトで問題ない状況になってしまった。メガドライブ期においては本体一基あたり6-8本ソフトを買ってもらえていたが、ドリームキャストにおいてはソフトの売上げが伸び悩び、とてもメガドライブ期に及ばない売上げになっていた。少数のソフトで満足できてしまう状況になってしまったのだ。そしてその状況を作り上げたのは当のセガだったのである。
そして致命的なソフトが誕生する。電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム(以下オラタン)である。
元々アーケードゲームで絶大な支持を得ていたソフトで、1998年に稼働開始していたが、ドリームキャストには1999年12月に微調整されたものが移植発売された。このソフトの売りはやはり通信対戦だった。ゲームセンターに行かなくてもCPUではなく、見知らぬ相手と戦える。リアルタイム通信対戦の場合、通信環境がネックとなるが、これは当時のKDDと提携することで乗り越えた。KDDの有しているデータオンデマンド回線を使うことによって、それなりに距離のある相手に対してもレスポンスよくかつ高速なやりとりをすることができた。インターネット回線ではないのでプロバイダー契約も不要。その結果、オラタンは当時の貧弱な環境で通信対戦をそれなりに高レベルな環境で行うことが出来た。
そう、通信対戦を高レベルな環境で行うことが出来たのである。
オラタンの通信対戦を行うに必要なものを見直ししよう。ドリームキャスト本体と、ソフトと、回線だ。インターネットではないからプロバイダーはいらない。繋いで、当時の仮想通貨「ドリム」を購入し、それでバーチャロイド搭乗ライセンスを月400ドリムで購入し、あとはデータオンデマンド回線料を支払えばいい。
最大のネックがこのデータオンデマンド回線料だ。これは日本全国均一料金・従量制だった。具体的にいえば
9円/分 夜時間(23:00~8:00) 10円/分 昼時間(8:00〜23:00)
である。重度のセガ信者はこぞってこのオラタンの通信回線に酔いしれた。従量課金であるため月何千円、何万円の通信料を喜んで払った。しかしその支払った先はセガではなく、KDDなのである。どんなにオラタンをプレイしたとしても、セガが受け取る料金は月額400円で終わった。
時には回線が切れ、マッチングができない状況になったが、その不満の矛先はすべてセガだった。セガ自身が大金をむしり取っている元凶ではない、のにもかかわらず。
そうしてセガは無事、自らの信者の金をKDDに流す仕組みを構築することに成功した。KDDはこの機を逃さず、カプコンと提携して人気ゲームである「MARVEL VS. CAPCOM 2」の通信対戦を提供している。(これももちろん従量課金である)
ドリームキャストはプレイステーションを徹底的に研究して作られたハードだった。しかしプレイステーションが度重なる値引きにも対応できるように考えられていたアーキテクチャであったのに対して、ドリームキャストはそれ以上の値引きに対応はできなかった。最終的に一台売ることに一万円の赤字が発生するハードになっていた。それを穴埋めするのにはソフトの売上げが不可欠であったが、それほどの売上げが、ドリームキャストのソフトにはなかった。KDDに大量の金が流れる横で、セガの出血は止まらなかった。
そしてついにPS2が発売された。PS2の発売後にドリームキャストの売上げが急上昇することは、ソフト・ハード共になかった。
また、ドリームキャストの広告には多額の費用がかけられた。130億円にも及ぶ巨額の広告費、秋元康が音頭をとって一大プロモーションを行った。
CMで湯川専務を中心とした展開がなされ、湯川専務は時の人となり人気者となった。そのときのことを当時の社長佐藤秀樹氏はこう語る。
「湯川専務は売れた。でもドリームキャストは売れなかった」
秋元康はアイドルを作り、アイドルを売り出すことにかけては名人芸のレベルに位置していたが、なにかのモノを売り込む際にこれがプラスの作用をもたらした、ということはなかった。CMを見ていたゲームに疎い一般層は湯川専務というキャラクターを認知しても、オンラインゲームが遊べるドリームキャストに興味を持たなかったのだった。
なお、ドリームキャスト撤退後に佐藤秀樹氏が秋元康を呼び寄せて「どうしてくれるんだこの金」と詰めたものの、「ごちそうさん」という具合で糠に釘な反応だったという。
流通・通信・広告。セガは全方位に全力を出してドリームキャストを売り込もうとしていた。
その身を削って入れ込んだ結果、巨大なダメージとなって跳ね返ってきたのだった。ドリームキャスト撤退時のセガの特別損失は800億円。これはセガが経営不可能になるレベルの話だった。セガ大川会長(故人)が850億円の個人資産を提供したものの、それでも当期連結決算は583億円の赤字に終わった。
このダメージは深く、2004年にはパチンコ会社サミーと合併となり、セガサミーホールディングス株式会社へとなった。セガはもう、自力では立てなくなっていた。
最終的に果てたドリームキャストと致命傷を負ったセガであるが、現在にも繋がる糸を彼らは有している。セガ・ミューズの流通網である。
セガ・ミューズは2000年7月、セガ本体が販売部門を立ち上げることにより役割を終えた。そのままセガ本社が流通を行うのだが、ドリームキャスト撤退後、プレイステーション2に正式に参入した後は他社のゲームの卸も行うようになった。セガが自分の金で他社のゲームをまとめて買い上げ、それを改めて小売に売る。中小ゲームメーカーにおいては最初にまとめ買いをしてくれる上に、販促もある程度してくれるセガはたくましい存在だ。今ではコンパイルハート、エクスペリエンスといった中小メーカーの他、EAやワーナーブラザーズジャパンといった海外メーカーの国内流通分に携わっている。
そして重要な選択をセガは行った。
2012年、元々コナミ流通がメインだったアトラスが正式にセガ流通へと切り替えた。ここからアトラスとセガは二人三脚の協力体制を築いていくのだが、その一年半後の2013年、アトラスの親会社インデックスが債務超過に陥った。インデックスが民事再生法を申請したのをきっかけに、セガはその再生スポンサーとなって、アトラスブランドの全事業・全株式を引き取った。このとき、セガはインデックスに対して141億円を支払っている。自力で立てなくなっていたセガは、このとき他社を助けるだけの力を取り戻していた。
セガは確かにドリームキャストを最後にコンシューマーゲーム機から撤退した。
けれども彼らは未だにゲームをつくることは止めない。ゲームを作ることで金を儲け、その金でまたゲームを作り、儲けた金で他社を救うこともある。
セガの夢は、革命は、幻となって散った。
だが、セガは今も立っている。何度倒れたかはわからないが、そのたびに立ち上がり、現実に立ち向かっていく。
セガの夢の結晶、ドリームキャストは終わった。しかしセガはまだ、走り続けている。
参考文献
元社長が語る! セガ家庭用ゲーム機開発秘史 佐藤秀樹
2001年TVゲームウォーズ 森岡巧
日経情報ストラテジー 1999年3月号
おとなのしくみ 4 鈴木みそ
※この記事はここで終わりです。購入しても感謝の文字があるだけです。支援していただける方は購入お願いします。
ここから先は
¥ 500
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?