そして革命は終わった -プレイステーション流通革命の真実- 前編
プレイステーション。
1994年にソニーが発売したこのゲーム機は、日本において流通革命を成し遂げ、当時圧倒的であった任天堂の独占を打ち倒し、ゲーム市場トップに躍り出たゲーム機であることはよく知られている。
しかしこの流通革命が、本来ソニーが目指した形とはずいぶんと違う形で収まってしまったことを、はたして如何ほどの人が知っているだろうか。
誤解を恐れずいうならば、ソニーの目指した流通革命は失敗に終わっている。
本記事においてそれを解説していこう。
まずはプレイステーション登場前のゲーム市場を俯瞰的に見ていこう。
任天堂の他に、NECとハドソンが共同で展開しているPCエンジンに、セガが発売したメガドライブが存在したのがプレイステーション登場前だ。
任天堂は初心会と呼ばれる玩具問屋グループを使い、その初心会らは二次問屋を使い全国のおもちゃ小売にゲームソフトを流通させていた。初心会はPCエンジンやメガドライブのソフトも扱うこともあったり、ハドソンやセガは個別に得意先の問屋とも取引していた(NECはPCメーカーであったため、そちらのルートも持っていたが)。それらの問屋も初心会と同じように二次問屋を通じて全国の小売にソフトを流す。流通が未成熟な時代であったため、メーカーが直接小売店に卸すことはなかった。小売店側も全国各地に店舗を抱えたゲオ・ツタヤといったような大手小売店がまだまだ少なく、夫婦二人で営んでいるような「町のおもちゃ屋さん」が多数だった時代だ。
メーカーは初心会や他の問屋からの注文をとりまとめ、任天堂にROMカセットを発注する。任天堂は半導体工場の都合を調整し、料金を前払い(発注時に半額、受け渡し時に残りの半額を払って貰う形だ)してもらう。それをメーカーは受け取った後、問屋に流す。
問屋は二次問屋、小売店にそれぞれ流していくが、ROMカセットはとにかく再生産に時間がかかる。次の生産には三ヶ月以上かかる。そのためメーカーも問屋も発注はシビアだ。小売店からしてみたら注文が殺到している新発売ゲームソフトの次回入荷が三ヶ月後、といったら悪夢だ。三ヶ月後も興味を保っている子供はそうそう多くない。その事情をメーカーも把握しているため、発注に全神経を尖らして挑まなければならない。もし売れ残ったらメーカーはディスカウントした二次出荷を行い、問屋は抱き合わせでそれを小売に押しつける。末端の小売はそれをワゴンセールに押し込んで処分した。
さて、ソフトが足りない場合はどうなるのだろうか? もちろん機会損失だ。問屋にも、メーカーにも在庫がないときに、なんとか機会損失をさけようとした小売が生み出した苦肉の策。それが中古だった。
遊び終えた子供からゲームソフトを安価で買い取る。それを新品よりは安く販売する。この策は小売店の救世主となった。
新品がない場合にも、高価買い取りで金額を掲げておけばクリアした子が売りにくる。それに価格を上乗せし多少割高であろうとも新品がない人気ソフトならば即売れる。ありがたいことに中古を売りに来た子はその手に入れたお金で別のソフトを買ってくれる。こうして中古ソフトが素早いサイクルでぐるぐると循環してくれるシステムが構築されたおかげで、小売店は大きな利益を手にすることができた。
実はこの利益はメーカーや問屋にも利があった。
ROMカセットの製造委託費は任天堂へ前払いだ。仮に10万本のソフトを発注したとしよう。任天堂への製造委託費は小売価格のおよそ3割。小売価格一万円のゲームソフト(スーパーファミコン時代、ついにゲームソフトが一本一万円を越えはじめたことを記憶されている諸氏は多いことだろう)なら3000円だ。これを10万本発注すると単純に三億円用意しなければならない。
用意できたとしてそれで問題解決か? いや、そうではない。そのソフトが売れなければ回収が出来ない。アメリカは小売への委託販売方式が主流であるため、実際に売れないと返品されてしまう。しかし日本では任天堂やセガがおもちゃ流通を使ってゲーム市場を切り開いたおかげで原則返品なしで済んでいた。問屋へソフトを渡せば実際に末端で販売されなくても代金は回収可能だ。速やかな初期投資の回収を、問屋を通すことでメーカーは行うことができた。
問屋はたとえ仕入れたソフトが不良在庫になってしまったとしても、二次問屋や小売店に抱き合わせで押しつける。最終的には小売店が大赤字で在庫をワゴンに投げるわけだが、その赤字を補填する利益になってくれたのが中古システムだった。中古に売って得たお金でワゴンソフトを買ってくれる子もいたはずだ(ただしそれはそれで別の悲劇を生んだが)。
中古で利益を確保できたおかげで、問屋からの抱き合わせ攻勢に耐える体力が備えられた。その小売がいるからこそ問屋は踏み込んだ発注をメーカーに出すことができた。こうした持ちつ持たれつの奇妙な関係が メーカー - 問屋 - 小売店 に構築された。小売は新品で客を寄せ、中古で利益を得ていた。
こんな関係を横目に最終的に儲けを吸い取るのは任天堂か、と当時は散々揶揄された。しかしキラーソフトを展開し、流通網を整備し、開発環境を整え、広告を打ち込み、ハードウェアを提供するという大ばくちを打ったのは任天堂自身である。一度失敗したらどれほどリスキーな目にあうかは当時のメーカー自体がよくわかっていた(ナムコは自社ハードの展開を予定し、実際に試作機を作るまでに至ったが「どうしても自社ですべてやる覚悟がなかった」という理由で計画を撤回している)。順当に稼いでゲームハードメーカーとしてのノウハウを積み重ねていたはずのNECとハドソンですらPC-FXで失敗し、大損害を食らった。それほどリスキーな事業を背負う覚悟の対価としては、そうおかしな話ではないはずだ。
こうした流れを見ると、任天堂は流通に踏み込まず、問屋任せにしていたように見える。しかしそれは違う。任天堂は任天堂で流通をコントロールしようとしていた。まずは参入メーカーの年間販売可能ソフト本数に制限をかけた。メーカーとしては可能な限り多くソフトを発売していきたかったが、そうなるとクソゲーが市場に氾濫する恐れがある。スーパーファミコン市場では一本一本任天堂内の品質調査部であるスーパーマリオクラブが審査し、点数をつけた。70点以上のソフトに関しては本数制限に引っかからないようにカウントされた。また、50万本以上の発注があった大作ソフトに関しては一本当たりのロイヤリティを減らした。そして、中小メーカー相手としては、とても有望なゲームソフトを開発しているのを見つけた場合、資金援助、広告枠援助を行った。「伝説のオウガバトル」がこれに該当した。こうした動きはクソゲーの氾濫によって生まれたアタリショック(任天堂はそう信じていた)を何よりも恐れていたからである。任天堂はギリギリのところでなんとか市場のバランスを保っていた。
ソニーが任天堂との共同プロジェクト、SFC一体型CD-ROM機の開発を一方的に破談にさせられ、単独にてゲーム業界に参戦しようとしたとき、徹底的な市場調査を行った。ソニーにとってゲーム業界はあまりに未知な領域だったからだ。その際見えたこれらの状況は彼らにとって「魔窟」としか表現しえなかった。メーカーは自分たちのソフトがいったい何本実際にユーザーに届いたのか把握できない。問屋は次にどんなソフトが「あたる」のか必死に見定めようとして血眼になって探す一方、不良在庫を小売に押しつけ、そして品薄になったソフトは仲間内で抱えて放出せず高騰したのを見計らってぼったくり出荷をする。小売は小売で押しつけられた在庫を消化しつつ、新品ではなく中古ソフトで利益を稼いでいる。まさしく魔窟だった。
当時の任天堂社長山内が離れた(離した)ソニーに対して言った言葉がある。
つまり「こんな複雑怪奇な流通をもつゲーム業界を制御することができるか? いや、無理だろう」と言っているわけだ。高性能なゲームハードを有しても、それでプレイする高品質なゲームがないとユーザーは決してハードを買わない。そのゲームを流通させ、適正在庫を保たせるには問屋が必要。その問屋とメーカーを繋ぎ、上手く回していくのは、この時代、任天堂しかなし得なかった。
ソニーの市場調査が終わった。SCE(ソニー・コンピュータエンタテインメント。独自プレイステーション計画が正式に立ち上がった時に設立)創業メンバーの一人である佐藤明はこう結論づけた。
しかし彼らは発想の転換でこれを越えようとした。ROMカセットを使う限り勝ち目がないのならば、ROMカセットを使わなければよい。CD-ROMを最大限活用し(NECはCD-ROMの低コストと大容量しか活用できてなかったと彼らは考えた)、この魔窟をスルーし、直接的にゲーム市場に乗り込んでやろうという思想である。つまり、SCE自ら問屋になり、小売店に販売する形を取ろうとした。こうすれば中間業者を省き、CD-ROMのメリットである低コストも活かすことで高騰化していたゲームソフトの小売価格を5800円にまで下げることができる。流通在庫を把握でき、実際に何本ユーザーの手に渡ったかもわかる。
そのうえCD-ROMの工場はソニー内にある。これならば恐ろしく速やかなリピートが可能だ。在庫がなくても中三日で再生産できる。月曜日に発注したゲームは金曜日に小売店へ実物が届く計算だ。ならば過剰な在庫を小売店が持つ必要などない。必要最小限の発注だけ行い、品切れしたらリピートすればいい。
同時にメーカーも過剰な在庫は不必要だ。メーカーはSCEに生産委託をかけるが、その場合の委託費はSCEが肩代わりする。SCE自身が問屋なのだから、出荷時に利益から差し引きし、余剰分をメーカーにお渡しする、という形だ。
暗中模索なSCEに革命の全体像が見え始めてきた。久多良木健(プレイステーションの生みの親であり設計者)という天才がいるため、優れたハードを提供することはできる自信があった。有力なソフトメーカーを引き込む策と、それを実際に流通させる手法も見えてきた。SCEにはSME出身者も多かったのが功を奏した。レコード販売店の手法を取り入れた。レコード販売店は新品を売ることで経営を成り立たせているからだ。実際に配送を行うのもソニー内にある流通会社ジャレードだ。全国のレコード販売店に配送を行うジャレードの流通網をそっくりそのまま借り入れた。これで小売店に速やかに再生産したゲームを速やかに送ることが出来る。
こうして出来た革命の概要はこのような具合だった。
1.ソフト会社は完成したプレイステーション用ソフトをSCEに収める
2.SCEは責任をもってこれを販売し、全国にある特約店へ販促活動を行う。体験版やPVがあるなら、それをガンガン配っていく
3.一定期間後、特約店からの注文をSCEは集計し出荷を行う。この際、メーカーとの最低取引数に満たなかった場合はSCEが自前で在庫を抱える。(ように努力致します、という注釈付きではあるが)
4.メーカーは製造委託費を差し引いた利益分をもらい受ける
5.特約店に配送されたソフトは値下げ禁止の小売価格そのままで販売される
6.返品機能はないものの、状況に応じてSCEが受けいれる場合もある(ただしこれは契約書に記載はなかった)
7.中古販売においてはこれを禁止する
8.ソフトの掛け率は75掛け。これはフランチャイズ間でソフトを移動させたときも維持する。かわりにフランチャイズ全体の売上げ高に応じて協力金を支払う(実質リベート)
9.非特約店に対してソフトの販売(いわゆる在庫飛ばし)は禁止する
新規プラットフォームを立ち上げるにあたって各ゲーム会社に誘致をしかけることになるが、3と4の問屋機能をSCEが有することに中小メーカーは飛びついた。任天堂の場合は製造委託費を前払いし、問屋が支払いをするまでの数ヶ月のタイムラグが存在する。大手はともかく、中小にとってこれはかなり手痛い(アメリカよりはずいぶんと楽な状況だったとはいえ)問題だった。SCEはその点が心配いらず、すべて肩代わりしてくれた。
その代わりクオリティに関しては注文があったが、SCEはこのとき「新機軸のゲーム」に非常に寛容で、見るべきものが一つでもあれば発売許可が降りたため、多くのソフト会社がSCEと契約した。今まで開発担当で表に出ていなかった中小や(日本一ソフトウェア)、全くの畑違いであるはずのビジネスソフトウェア会社が(フロムソフトウェア)プレイステーションにパブリッシャーとして参入した。
大手においては自社ハードを断念したナムコが精力的に参加した他、コナミがロンチから参加しているが、コナミに関してはごたごたが生じてしまった。
コナミは「完全自社流通」を要求していた。コナミはこの時点で各地に100の営業所を持ち、13の販売会社を有しており、問屋を超えて直接小売店へ卸すことも行っていた。自前で在庫を持ち、それを調整しながらゲームで大きな利益を得ていた。スーパーファミコン最盛期を迎えた初心会の横暴も目立ってきた頃であるため、コナミとしても完全自社流通に移行したがっていた。アーケード部門の販売・サポートをするために全国に営業所が点在していて、彼らがそのまま家庭用ゲームの販売も行っていたのである。
しかしプレイステーションにソフトを出すにあたって、SCEは流通をまかせて貰うことを譲らなかった。コナミを信用していないわけではない。この「リピート重視、在庫は極小」という新しいビジネスモデルが実践できるか不透明であったからだ。事実、契約したソフトメーカーの中には「いや、その理念はわかるんですけど、うちのところだけは発売日に大きく取り扱ってください」とお願いするところも少なくなかったからだ。
最終的にコナミが折れ、「当面SCEに流通を任せる」ということで契約成立となった。
そしてSCEは小売店と契約しに廻った。当初はなかなか理解されなかった。「新品だけを売って儲ける」ということが、あまりにゲーム市場の流通事情からかけ離れた夢物語にしか見えなかったのだ。中にはあまりに荒唐無稽なことをいいだすSCEに対して、ゲーム業界のビジネスモデルの解説をしてくれるところまであったという。
しかし少しずつ契約店は増えていった。プレイステーションというプラットフォームが露出し、そしてナムコ・コナミといった大手が参入し、にわかに注目が集まり出すと「とりあえず取扱してみようか」という判断を下すところがでてきた。プレイステーションの中古が取り扱えないのは手痛いが、ならばSCEのいうとおり、少量の入荷でリピート重視の販売方針をしてみようか、という具合だろう。
概ね5000店のところでSCEの小売店勧誘はいったん休止に入った。これ以上増やしたところで下手な流通在庫が増えるだけだし(当初の草案では1000店だった。それをソフトメーカーに伝えたところ、怒られてしまった。初心会関連の取扱店舗は2万5000店だったからだ)、そもそもSCE自体、どれほどプレイステーションが売れるか全く予測できていなかった。発売日に本体10万台を用意する計画を立てたが、これも家電メーカーとしては異例の台数だった。しかしロンチで用意した本体10万台は発売日に溶けるように売れた。追加生産を行いラインの増設を行い、小売から上がってくるリピート注文を絶え間なく出荷した。小売は次第にプレイステーションの取扱比率を徐々に上げていった。
嬉しい誤算としてはプレイステーション本体の掛け率も75%だったことだ。当時からハードの掛け率は悪いのが通例だった。スーパーファミコンの初年度に関しては抱き合わせで仕入れなければならず、さらには掛け率が100%近かった。このあたりの事情はSCEがまだゲーム業界に不慣れなために起きた。
標準小売価格39800円のプレイステーションを売ると一万円近い粗利がでる。これは小売店側も素直に喜んだ。発売直後の特約店はそこまで多くはなかったが、見事契約できた店はサターン、スーパーファミコンを差し置いてプレイステーションをメインに売るようになっていった。そうした小売店はプレイステーションの顧客をつかみ、ソフトも売れるようになっていった。在庫がなくても週末には入荷しているため、予約中心の手法がとれるようになった。
このときは未だ市場はスーパーファミコンの全盛期であり、プレイステーション自体も販売台数ではセガサターンの後塵を拝していた。開発がこなれ大作ゲームが多数でているスーパーファミコン。問屋がごたごたしているため小売店の協力はイマイチなれど、バーチャファイター2という革命的ソフトを有しているセガサターン。それに対してのプレイステーション陣営は、リピート注文が上手く機能しているため値崩れは少なく、平均的なソフト売上げはなかなかのものだった。しかし、派手さがなかった。
スーパーファミコンに出ている大作系ソフトや、サターンのバーチャファイター2のような派手なソフトがプレイステーションに求められた。任天堂の次世代機ニンテンドウ64も控えている。
ナムコのプレイステーションソフトの売上げが新作よりもリピートのほうが比率的に逆転し始めた1996年、待望の派手なソフトが発表された。当時のゲーム機戦争の決定打、ファイナルファンタジー7である。
当時のファイナルファンタジーを有するスクウェアの人気は絶大だった。スクウェアの出すソフトに外れなしと呼ばれ、ゲーム雑誌はこぞってスクウェアの特集を組み、小中学生は夢中でスクウェアのゲームを買い漁り、仲間同士ではどれを買うか相談しつつプレイするゲームソフトを交換しあった。ファイナルファンタジーはそのスクウェアの中でも特別な意味のあるシリーズだった。それがニンテンドウ64ではなく、プレイステーションで発売される。しかもファイナルファンタジーだけではない。今後スクウェアのソフトは全てプレイステーションで出るという。とんでもないビッグニュースだった。
この時点でゲーム機戦争の雌雄は決した。売上げが鈍化したサターンを尻目に、プレイステーションの売上げは跳ね上がった。本体の値下げを昨年7月にしておいた(新モデル発売とともに29800円。このときちゃっかり小売店の掛け率を業界通例の85-90掛けへと引き上げたので、SCEの値下げ幅は一万円以内なのだが)のも功を奏した。増設した工場のラインは米国発売分と、再加熱した日本市場の売上げを支えることができた。RPGメーカーとしてスクウェアと双璧のエニックスも、「ドラゴンクエスト」を引っさげて参入した(これはスクウェアがエニックスをプレイステーションに勧誘した結果。ただし任天堂との義理もあり、スクウェアと違ってニンテンドウ64でもソフトを発売した)。
ニンテンドウ64登場後もこの流れは変わらなかった。プレイステーションは任天堂を下し、日本のゲーム市場で見事No1の座を獲得したのである。
そして歯車が狂い始めたのも、この頃だった。
続き
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