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大人になって母のひざまくらを求めた理由を『愛するということ』から知った
大人になってから求める母性の正体
母と生き別れた過去
5歳のとき、母は家を出ていきました。
父の不貞によって、母は逃げ出すように家を出ていったのです。
それから25年という年月を、母と別れて生活しました。
父は不器用な人だったため、子育てなどできないと踏んでいた母は、子供を置いて出て行けば「きっと泣き寝入りしてくるだろう」という計算のもと、子供を見捨てたような形になった結果が、25年という年月になってしまったのです。
母も被害者でした。
そんなことを知らずに残された子供は、「母はきっと迎えに来てくれる」と信じて毎日を過ごしました。
しかし父の恋人だった人が一緒に住んでいるため、母が戻る場所はどこにもありません。
そんなことも知らなかった子供は、「一緒に住める日が来る」と信じて待ち続けました。
25年経ったある日、母に連絡を取った子供は、無事に母に会うことができます。
母の面影は残っていたものの、母の顔まではっきりと覚えていない子供は今でも、母の面影と現実の母の姿を見比べては、記憶の整理をするのでした。
ある日、母に思い切って聞いてみたのです。
「ひざまくらしてほしいかも」
「かも」と付けたのは照れ隠しです。恥ずかしかったのかもしれません。
しかし、母からは快い返事はもらえませんでした。
「そういうのは、今の奥さんにしてもらいなよ」
確かに。もう平均寿命の三分の二の年齢を越えようとする男が、母のひざまくらなど、気持ち悪いだろう。マザコンでもあるまいし。
しかしあれ以来、母のことを母だと確認する手段を失っています。
面影の中の母と、現実の母が同じ母だと確認できずに、今に至っています。
ひざまくらという行為は、子供の頃の曖昧な記憶に頼って、現実の母との25年の月日を埋めてくれる大切なものだったのです。
面影の中の母の記憶は、母のひざまくらから、母の顔を見上げている記憶だったのです。
その時の顔を、一番記憶にとどめていたのです。
一番はっきり記憶している母を、確認したかったのです。
「そんなこと言わないで、ひざまくらしてよ」
そんなことを言えるのは、母と確証を持てたときだけです。
面影の中にある母と、いま目の前にいる母が同じ母である確認が取れない以上、そんなわがままを言えるはずもなく。
ただただ、笑顔を貼りつけて、母の話に耳を傾けています。
母に愛されるということ
母に愛されるという経験は受動的だ。
愛されるためにしなければならないということは何もない。
母の愛は無条件だ。
しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。
フロムは、母の愛が無条件であることは否定的な側面を持つと言います。
それは、無条件であり、資格もいらないということは、反面、それを手に入れよう、つくりだそう、コントロールしようと思ってもできるものではないというのです。
8歳から10歳くらいまでの子供に大切なのは、ありのままの自分を愛されることだけだといいます。
この年齢までの子供は、愛されれば喜んで反応するが、まだ自分からは愛さないのです。しかし子供の発達段階において、新しい要素、すなわち自分の活動によって愛を生み出すという新しい感覚が生まれます。
子どもは、母親に何かを贈ること、絵を描いたり、詩を書いたりして、愛という概念が「愛するということ」から生まれるのです。
思春期になると、子供は自己中心的主義を克服するといわれています。
他人は自分の欲求を満たしてくれる相手ではなくなっていくのです。
他人の欲求が自分の欲求と同じくらい重要になるのです。
他者と結びつき、分け合い、一体感を知ります。
愛されることによって何かを得るのは、何かに依存することになります。
愛されるためには、自分は小さく、無力で、病気でなければならず、「よい子」でいなくてはなりません。
受け身の思考から、愛を生み出すことを覚えて能動的な思考に変化していくと、強くなり、相手に会いを分け与える存在になろうと努力します。
「愛されているから愛する」というのは幼稚な愛のカタチです。
「愛するから愛される」というのが成熟した愛のカタチなのです。
「あなたが必要だから、あなたを愛する」は未成熟な愛であり、
「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」というのが成熟した愛です。
生まれてから数か月から数年間、子供がいちばん愛着を抱く対象は母親です。愛着は出生前の、母の胎内にいるときから生まれています。
母の胎内から生まれた後も、しばらく母に依存している状態のままです。
そこから独立するためには、父の愛が必要になります。父の愛は条件付きの愛です。
・長所があるから愛される。
・愛される価値があるから愛される。
こうした条件には疑念が残ります。
「ひょっとしたら自分は、愛してもらいたい相手の気に入らないことをしているのではないか」という疑念が拭いされないまま、愛が消えてしまう恐怖と戦っています。
愛されるに値するから愛されるという愛は、
・「ありのままの私が愛されているわけでは無い」
・「私は愛されているのではなく、利用されているのかも」
といった苦い思いを生んでしまいます。
だから、
「子供も大人も母性愛への憧れをすてきれない」のは不思議なことではない。
大人の場合は、母性愛への憧れを満足させるのは、子供のそれとは比べ物にならないくらいに難しい。
とフロムは語っています。
母に愛されたいという願望
「母に愛されたい」
大人になっても、子供はそのように思っています。
それは、「愛しているよ」という言葉だけではなく、直接触れる、触れ合いによってしか得られないものがあるのです。
それを大人になってから満たすことは、不思議ではないが難しいとフロムは言っています。そう、難しいのです。
満たされたいという願望をもったまま、これからも生きていかなくてはならないのでしょう。
父からはまさに、条件付きの愛を今でも提示されています。
どのような事象においても、ケジメを付けなくては、愛してはもらえないのです。「良い子」でなくては、愛してもらえない。
良い子とは何なのか、常に考えて生きてきました。
他人に迷惑をかけない、おとなしい、存在感の薄い子供。
それこそが、子供が行きついた、「良い子」の定義でした。
悪い子でも、愛してくれる母親は、子供には必要なのです。
どんなに悪くても、愛してくれる母がいたら、きっとその子は良い子になります。
それが、本当の良い子なのではないのかな、と幻想を抱いている毎日を送り続けています。
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