一つではない答えを考えることを考える
答えのないものに価値がある
答えを求めると生きづらい
「手帳好きの読書部屋」
というXのスペースを開催している。
今月のテーマは「宮沢賢治」である。
『銀河鉄道の夜』に注目しての今回は、宮沢賢治の作品にある特徴について話した。
宮沢賢治は元々、心象スケッチを得意としていた。
「心象スケッチ」とは何なのかというと、『春と修羅』に見られるような“詩”のように『心象』をまさに『スケッチ』したような心の機微や移ろいを描いたものである。
常に手帳を持ち歩いていた宮沢賢治は、鉛筆で思いついたことを書き留めることが好きだった。その時々の心の移ろいを言葉として描き、それを書き溜めて云った。
そのようにして宮沢賢治の作品は出来上がっていると云っても過言ではない。
そのように宮沢賢治の言葉というものは、賢治自身の心に寄り添って書かれたものがほとんどであり、そうした書き方をしているというのは、ある意味では読み手を無視しているとも取れる。
実際に宮沢賢治の作品に出てくる『造語』と言われるものの数々は、ほとんどは研究者によって明かされてきたが、未だに多くの研究者をもってしても解明不可能なものもある。それほど難解で、宮沢賢治が残した文章のどこをとっても、理解不能なものがあるということだ。
こうして考えると、宮沢賢治が『児童文学作家』として名を馳せたのはなぜなのか、という点が気になるところだが、その答えは賢治作品のもつ『作品から放たれるインスピレーション』に他ならない。
宮沢賢治の作品から感じる『インスピレーション』は、文学に親しんだ経験が少ないものでも感じることができる。
これによって、「童話を読む」という行為に収まらず、「この作品が私の人生に与えている影響とは何だろうか」と感じることができる。
『能動的』に本を読み、内容を『受動的』に受け取って、『能動的』に実生活に活かしていく。
こうした『理想的な読書活動』が、自然にできることが宮沢賢治作品の魅力なのだと言える。
宮沢賢治は、教師を辞めて農家に転身後は、農家の生活の喜びや苦しみというものを描いたり、妹を早くに亡くしたことなどを作品に反映してきた作家である。
賢治の人生で、感じたことや経験を文字として書き起こしているのだ。
そう云った内容を、『心象スケッチ』で培ったワードセンスによって、美しい言葉に変換され、美しい作品に仕上げている。
この卓越したワードセンスに魅了された人も、賢治の人生経験からの言葉に魅了された人も、同時に宮沢賢治の作品の虜となるのだ。
間口が広く、奥行きも深い作家。
宮沢賢治は、近代文学でも抜きん出た才能の持ち主であることは言うまでもない。
文学というものは、勉強したところで、頭がよくなるものでも体が丈夫になるわけでもない。当然出世やお金儲けには全く役に立たない。
では、そうであるにも関わらず、なぜ今まで文学が存在し続けたのか。
それは、文学が人間の心の問題、魂の問題に直結するものだからと言える。
人間というのは、役に立つことだけではなく、役にたたないこと、無駄なこともやりたくなる。
人として、罪となってしまうことすら、本当は「やってみたい」という衝動に駆られているものだ。
取り返しのつかない過去の過ちについて後悔したり、どうしてもできないことへの葛藤というものを抱えて生きている。
そうした人間の心の居場所はどこにあるのか。
それが、文学なのだ。
文学というものは、善と悪ではない。清と濁でもない。
生きているだけで同時に存在してしまう、豊穣な世界だと言えるのでは無いだろうか。
こうした文学の本質を最もよく表しているのが、宮沢賢治という作家なのだと私は思う。
児童文学という枠に収まらない作品の数々は、私たちに疑問を投げかける。
子供にわかりやすく道徳的教訓を与える訳ではなく、「ほんとうにそれでいいの?」と常に投げかけてくる作品に触れているうちに、子供たちも自然とこのように『考える』ことが習慣となる。
怪しい世界観が登場し、想像を超えた感性の世界が広がり、謎が謎を呼び、どこかしら「死」の予感もある……。
宮澤賢治の童話は読者に、わかりやすい教訓というよりも、「わからなさ」の感覚を残す。だからこそ、読者の想像力のスイッチが入り、小さな子供から大人まで幅広い読者を獲得しつづけてきた。
『感覚』というインスピレーションを受け取れることが、宮沢賢治の魅力なのだ。これからも、宮澤賢治の世界に溺れていきたい。