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客観視すること

第三者目線で物事を見ること

わたしは小説を書いている。
文芸誌の新人賞に応募することが目的だ。
新人賞、いずれは芥川賞を取りたいとも考えている。
もちろん、儚い夢だということも理解している。
しかし、そこを目指すことによって私は、わたしを保つことができるような気がしている。

書いていて気が付いたのだが、わたしの書くものは、一人称が多い。
つまり、主語が『私』なのである。
日記などと同じように、一人称が多いのだ。
ライティングゼミでもよく言われている。
「主観が多くて、客観が少ない」と。
これは、自分のことを中心に考えていることと同意だ。
そこに他者の目線がない。

わたしは、「他人からどのように見られているか」が気になる人物だ。
それなのにもかかわらず、他者の目線がないとは、どういう事だろうか。
それは、物事の中心に自分を据えている、とは言えないだろうか。
そうだとすれば、わたしは自分中心な人間ということになる。
おそらく、わたしの周囲で、私と今まで関わったことのある人なら、それに異論はないという人もいるだろう。
そのくらい、わたしはわがままに生きてきた。
自分がやりたいことをやって、やりたくないことは途中でもやめた。
「途中で投げ出す」と、捉える人もいるだろう。
それなのに、わたしは「他人からの評価を気にして生きている」のである。
おかしいこと、この上ない。

人生に、『三人称の目線』を入れてみたらどうなるだろうか。
『一人称限定』のわたしに、『三人称の目線』を入れてみることで、人生を物語に変化させることができる。
すると、そこにこそ、本当の客観的目線が入るのではないだろうか。
小説を、三人称で書こうと思ったら、一気に書きにくくなった。
わたしには、そういった目線が無かったという証拠である。

そんなことは、言われなくてもわかっている、証明不要な事実だと思っていた。客観的な目線が必要なかったのかもしれない。
そのことが、何よりもショックだった。
しかし同時に、ようやく他者と関わることが理解できたと、喜ばなくてはいけないのかもしれない。
自分の成長に、もっと諸手をあげて喜ぶべきなのかもしれない。

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尾崎コスモス/小説家新人賞の卵
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