吉田松陰『覚悟の磨き方』より集団社会で生きること
集団社会で生きることは楽じゃないのはなぜか
自分の居場所をつくる
わたしたちは、いつ、どんな場所に居ても「自分が居てもいい場所はここだよ」と教えてくれる人を求めていますよね。
新生活、新学期、新年度など、新しい生活をしているとなおのこと、そうした思いが強くなります。
そうしたときには、わたしたちは往々にして、必死に自分の場所を持とうと必死に頑張る期間があります。
これは、言い換えてみれば、「自分の能力を認めてもらおう」とする期間とも言うことができます。
しかし、そうした場面というのは、なかなか訪れないのが現状です。
こんな場面は、自分で作れるものではありません。
頑張っていても、誰も見てくれないのが現状であり、自分の期待するほどにまで評価されることも、ほとんどありません。
こうした現状が、集団社会で生きることの辛さにつながっているのです。
周囲に自分の能力を認めてもらう
周囲に自分の能力を認めてもらうためには、どうしたらいいのでしょうか。
それは先ほども言ったように、頑張って何とかなるものではありません。
したがって、「こうしたら評価される」なんていうマジックは存在しないのです。
実直に、真面目に、コツコツと目の前のことを必死でやる。
それが一番、近づく可能性のある方法となります。
それでも、期待してはいけません。
吉田松陰は、言っています。
「人は自分が思うより、見てくれているものだが、人は自分が思うほど、見てくれていないものだ」
つまり、自分が思うほどの期待はするなということです。
さらに居心地のいい場所を求めて
そんな中でも、自分の居場所を見つけられることがあります。
ふとしたきっかけで、自分の居場所が集団の中に見つけられたとき、その喜びはひとしおです。
すると、人はわがままなもので、その居場所を守ろうとする気持ちが生まれてきます。
自分がいまいる場所を、居心地のいい場所にするために、一つ上の暮らし、地位、家族、実績……などを手に入れようと必死になるのです。
そうするうちに、いつしか人は、「居場所を守るために」生きるようになるのです。
そのためだったら、たいていのことはできるようになり、生き方や信念でさえ、曲げられるようになります。
公約を掲げて、賛同を得られた議員さんが、当選して実績を重ねるうちに、だんだんと初めに言っていたこととは別人のような行動を起こしていく。
そんなことが、世間ではありふれています。
「あんな人だと思わなかった」
そんな風に言われて、世間から堕とされていく有名人も、数多く存在しています。
初めは純粋に、自分のやりたいことをやれるだけで充分しあわせだったのに、少しずつ居心地がよくなるにしたがって、「もっと、もっと」と居心地を良くしようと考えるようになるのです。
人って怖いですね。
安心感を求めるのは、生存本能なのです。
そうしないと、生き残っていけない。
そうした強い思いが、強い行動、強い言葉となって体の外に出てしまうものなのかもしれません。
吉田松陰は、そういう生き方を嫌ったのです。
「安定した生活」の先はつまらないもの
「安定した生活」の先には、目に見えぬものに怯える、つまらない日々しか待っていないと、吉田松陰は知っていたから「つまらない」と言ったのでしょう。
松陰が理想としていたのは、武士の生き方だったのです。
士農工商という制度に守られていた武士は、何も生み出さずとも禄(給料)があったのですが、そのかわり、四六時中「生きる手本」であり続けなければならなかったのです。
これは、簡単に言いますが、かなりつらいことですよね。
武士は、日常から無駄なものを削り取り、精神を研ぎ澄ましていました。
俗に通じる欲を捨て、生活は規則正しく、できるだけ簡素にしたといいます。
万人に対して公平な心を持ち、敵にすら憐れみをかけたのです。
自分の美学のために、自分の身を惜しみなく削ったのです。
目の前の安心よりも、正しいと思う困難を選択したのです。
そのように逆境や不安に動じることなく、自分が信じている生き方を通す事こそが、心からの満足を得られる生き方だと松陰は固く信じていたのです。
本当に大切にしたいことは何か。
大切にしたいことのために、今できることは何か。
その問いの繰り返しが、退屈な人生を鮮やかに彩るのです。
松陰の意見を尊重する、現代での生き方とは
「いやいや、ちょっと待ってください」
「そんなこと、松陰さんだからできるんでしょ?」
そんなツッコミを入れたくなりますよね。
聖人君子じゃないんだから、そんな修行みたいな生き方は現実的ではありませんよね。
では、どのように生きることが、こうした他人の評価に右往左往することなく生きることができるのでしょうか。
先日、わたしの職場で、こんな話題が出ました。
「どうしたら、見返りを求めずに、働くことができるのか」
という問いです。
そこで出たのが、こちらの本に書かれていることでした。
【本書の説明】
「ギブ&テイク」とは、この世の中を形成する当たりまえの原理原則に思える。
しかしこれからの時代、その“常識”が果たして通用するのかどうか
著者の問題提起が、アメリカで大論議を巻き起こしている。
人間の3つのタイプである
●ギバー(人に惜しみなく与える人)
●テイカー(真っ先に自分の利益を優先させる人)
●マッチャー(損得のバランスを考える人)
もっとも成功するのは誰だろう。
このそれぞれの特徴と可能性を分析したするどい視点。
世界No.1ビジネス・スクール「ペンシルベニア大学ウォートン校」史上最年少終身教授、待望のデビュー作!!
全米トップ・ビジネススクール「ウォートン校」の史上最年少終身教授でもあり、気鋭の組織心理学者が教えるビジネスの成功の秘訣。
わたしは
「どうしたら、見返りを求めずに、働くことができるのか」
という問いに対して、『give&take』の関係に近いと感じたのです。
ギバー(Giver)になることが、一番の近道だと感じました。
ところが、普段の会社勤めをしていて、完全にギバーになることは不可能です。
なぜなら、「評価が欲しい」からです。
他人からの評価が無いと、その会社内での居場所がなくなります。
居場所がなくなると、働くことが困難になります。
その評価をもらった以上、次の就職先にも影響することが出てきます。
それは、『同じ業界内』で転職する人がほとんどだからです。
ほんとうに、働いていて、「見返りを求めない」なんてことがあるのだろうか。
会社内の議論の論点は、この点に集約されました。
わたしは、高校在学中から、飲食店で働いていました。
飲食店では、お客様からの感謝の言葉を期待したことが無かったのですが、お店の運営をしているオーナーなどの評価は気になっていました。
「お店の中で、一番の評価を得たい」という気持ちが消えませんでした。
つまり、お客様に対してはギバーであっても、オーナー側にはテイカーであることになるのです。
いかに、自分の評価を勝ち取るか。
これを切り離して、考えることはできるのでしょうか。
ギバーになる方法
完全に見返りを求めずに、仕事をすることは、果たして可能なのか。
それには、「自分の置かれている場所」によるのだと思います。
いま、自分が置かれている場所が、安全なのかという点は、決して外すことができないのです。
「この場所はあなたの場所です。だから思い切ってやってみなさい」
そうした場所の提供というのは、環境側にもできるはずです。
しかし、それだけでは、ギバーになることはできません。
先述したように、「居場所を良くしたい」という思いが出てくるためです。
いい場所があっても、「もっと居心地のいい場所にしたい」という思いが出てきてしまうものです。
完全に見返りを求めずに働くことは、現実的に無理であると考えるべきなのかもしれません。
しかし、こう考えてみてはどうでしょうか。
「お客様にはギバーであれ」
若いころに、「働くというのは、傍(はた)を楽(らく)にすること」と教えられました。
つまり、飲食店であれば、お客様には常にギバーであること。
そして、同じチームスタッフにも、ギバーに徹すること。
その上で、自分の評価を考えること。
あくまでも、自分のことは後回しにする。
それだけでも、充分な「ギバーである」と言えるのではないでしょうか。
自分の生活を何もかも犠牲にすることが、美徳とされる日本の社会。
それを、何もかも受け入れるから、自分が壊れてしまうのです。
どんなことでも、「半身」の精神を持つ。
それは、こうしたことなのかもしれません。
半身で働くことの本当の意味
『半身で働くことなど、できるのだろうか』
という問いを立てて、書いた先日のブログがありましたが、本来の半身というのは『白でも黒でもないグレーゾーンのこと』なのかもしれないと、今回思い直しました。
わたしたちは、いま、働くことについて考えさせられています。
集団社会の中で生きていく方法や、自分の評価を何で反映させていくのか、ということについて、もっと考えるべきなのかもしれませんね。