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書き言葉と話し言葉の違い

放たないと伝わらない怖い言葉の矢

言葉にして相手に伝えるのが苦手だった。
そもそも、どんな言葉を使って伝えたらいいのかも、わからない。
でも、伝えた後はいつも思う。
「初めから、すんなりと伝えておけば良かった」と。

一人っ子で育った上に、自宅には自分しかいなかったことが多かったせいか、独り言が多い子供だった。
どのくらい多かったのかというと、テレビに向かって話すことはもちろん、鉛筆やタンスなど、自宅に存在するものはもちろん、友達や両親を架空に見立てて話しかけていることもあった。つまり、そこに居る、居ないに関わらず、頭の中で話したいと思ったことを話したい相手に向かって、話していたことになる。
私にとって、話し相手というのは、無限に存在していたし、話す内容も相手によっていくらでもあった。

それなのに、なぜか、実際には話せなかった。
面と向かうと、どうも、勇気が出ない。
言いたいことの、半分も言えない。
こうした自分の気質を、なんとかしたいと苦しんだのだ。
しかし、どうすることもできず、“ただ話す”ということができなかった。

「察してほしい」という態度になってしまう。
言葉にせず、相手にわかってもらおうという、自分勝手な方法をとっていた。
しかし当然ながら、察してくれるはずもない。そんなことは、わかっていても、こうした態度に出るのは、話すことを諦めているのだろう。

これではダメだと、自分を鼓舞する。
人に話したいことを、話せない人間のままでいるのは、あまりにも不自由だ。
こんな自分を脱却するためにも、気軽に言いたいことを言える人になりたい。

ねじり鉢巻きをして、時間を作り、話すきっかけを作り、話す内容を吟味して、いざ、尋常に勝負!!!とならなければ、話せない。要するに、構えてしまうわけだ。
考えてみれば、こんなに構えて話すようにしていたら、話せないのは当然であるように思う。一回一回こんなに力が入っていては、疲れてしまうだろう。

できるだけ、気楽に、肩の力を抜いて話そうと思うのだが、「気楽にやろう」と思うほど、力が入ってしまう。
意識しすぎも、よろしくない。
意識してはいけないから、意識しないように努める。するとなぜか、意識してしまう。
これはどうしたものだろうか。

もう、いっそのこと何も考えず、頭が真っ白の状態のまま話しかけてみたことがある。
そのときは、話し始めることは成功した。
難なく話しかけることができ、すごく自然に話すことができた。
しかし、大問題が発生した!
気楽に話し始めすぎて、何を話すか忘れてしまったのだ。
こうなると、完全にパニックである。
もう、後戻りもできなければ、話を進めることもできない。
あたふたするだけで、頭の中は真っ白だ。
「あ〜、こんなことなら、ちゃんと考えて話せば良かった〜」
となってしまった。

反省をふまえて、今度は考えて話そうとする。
すると案の定、考えすぎて構えてしまう。
気合を入れないと、話せない。

人に対して、言いたいことを言葉で伝える必要がある。
私も言いたいことはある。
しかし、伝えられないのなら、いっそと思い、手紙にしたためた。
これは思いのほか、上手くいった。

話せないのなら、手紙にするという方法を、なぜもっと早く気が付かなかったのだろう。
時間をかけて書いた。言葉を選び、何度も書き直して書いた。
話す言葉では、こうはいかず、口から飛び出た言葉は、もはや自分のものではなくなる。
いろいろな捉え方をされ、私が言った言葉の意味から、大きく外れていくこともある。大変大きな影響力を持つこともある。
それによって、傷つけなくてもよかった人を傷つけ、大切な人を失うこともある。

手紙を書くことは面倒くさい。
何度も書き直すとなったら、なおさらだ。
しかし、この書き方は誤解を招かないだろうか、この言い回しは人を傷つけることにならないだろうかと考えることができる。
言葉が怖いことに、変わりはないが、話すことと、手紙には決定的な違いがある。それは、手紙を書いている間、その言葉が残っていくという意識を持って書いているということだ。
手紙などの紙に、文字を残すことは、そういった緊張感がある。
今、書いている言葉が、このあと何人に読まれるのかを想像すると、緊張が走るのだ。その緊張が、見えやすいため、書くことが苦手という人は多い。

しかし一方で、話すことが苦手という人は、ただ、「人前で緊張しやすい人」というレッテルを貼られて終わりのように思う。
そこに、「書くことの緊張感」のような、「話すことの緊張感」は考えられていないように感じるのだ。
書くことよりも、話すことの方が、人を傷つけやすいのは、こんな理由があるのではないだろうか。

もしかしたら、私が、言葉にして相手に伝えるのが苦手だった上に、どんな言葉を使って伝えたらいいのかも、わからなかったのは、話すことによる言葉の怖さを自覚していたのかもしれない。

私にとって話し言葉とは、狙わなくては人を傷つけるかもしれないが、狙いすぎてはタイミングを逃してしまう、弓矢のようなものかもしれない。
その時その場で、的確な判断と洞察力が必要な、高度技術なのだ。

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尾崎コスモス/小説家新人賞の卵
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