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出産ブンブルブルブル!
妻の夫に対する愛情は、子どもが産まれれば全て子どもに注がれる。
だから、夫への愛情はゼロになる。
そこから、夫がいかに献身的に育児をするか。夫が子どものために動くかによって、妻の夫に対する愛情が徐々に戻っていく。逆に子育てに参加しなければ、夫への愛情はゼロのままである。
育児本にそう書いてあった。
妻は妊娠してから、その育児本を僕に見せて「よろしくね」とそう言ってきた。
愛がゼロにならないように、つわりが辛そうな妻に寄り添う。失敗したり様々なことがありながら、確実に妻のお腹は大きくなっていく。料理を作ったり、掃除をしたりと家事全般を落語の仕事や稽古の合間に、こなしていく生活が続いた。
そして予定日が近づいた妻は実家に里帰りをした。
実家に里帰りとは言え、関東近郊なので空いた時間があれば、なるべく実家へ顔をだすようにしていた。
予定日は近づくが、初産は予定日を過ぎることが多いと聞いていたため、まだこないだろうなあと思っていたのだが、その日は突然やってきた。
「破水したかもしれない」
深夜0時過ぎに妻に言われたのだが、量が少ないため、破水なのかどうか判断できない。ひとまず様子をみることにして就寝。
しばらくすると、妻のお腹が痛みだした。
今は陣痛タイマーというアプリがあるらしい。
何時に始まったのか。痛みはどれくらい続くのか。どれくらいの感覚で痛みがくるのか。そこにメモしていき、それが陣痛なのかどうかを判断するのだ。
そのアプリは夫婦で共有できるため、はっきりとした時間もわかる。
4時10分53秒に痛みだす。
持続時間56秒。
次の痛みは、4時14分13秒
持続時間26秒。
4時18分9秒 持続時間1分49秒
4時25分4秒 持続時間1分28秒
4時34分29秒 持続時間1分41秒
4時40分48秒 持続時間1分23秒
4時47分46秒 持続時間1分29秒
4時53分1秒 持続時間1分7秒
5時00分2秒 持続時間1分45秒
5時06分9秒 持続時間6分7秒
5時20分24秒 持続時間1分36秒
5時25分34秒 持続時間1分48秒
5時33分21秒 持続時間1分32秒
5時40分17秒 持続時間1分13秒
5時45分10秒 持続時間30秒
5時48分9秒 持続時間1分35秒
痛みが始まると、妻が「う〜」とうなる。それに合わせて、僕もウトウトしながらも、妻の腰をさする。それを繰り返していたわけである。途中、ふたたび破水したかもしれないと妻に言われて、産院へ連絡する。
そこの産院では、本人が必ず連絡する仕組みらしく、本人以外には連絡先を教えてはいけないらしい。本人から直接聞き、また声の様子で判断するためだ。
「破水ではないと思いますが、不安なら来てみますか?」
陣痛でなければ、また家に戻ることになるのだが、もしものことがあったら一大事である。もし破水をほっとけば、赤ちゃんに感染症のリスクがある。
時刻は6時過ぎ。
妻の実家では、早朝からてんやわんやである。両親が起き、お父さんの運転で産院へ行くことに。
病院に行けば、どんな状況になるか分からない。軽く着替えて、最低限の荷物を持って、乗車する。
産院は車で5分。
近くで良かった。
産院へ着き、助産師さんに検査をしてもらうことに。
待合室で待っていると、僕以外にも男性が一人座っていた。
僕としては、半分帰ることになるだろうなあと思いながらもドキドキである。そんな僕におそらく同じような状況であろう、もう一人の男性が話しかけてきた。
「一人目っすか?」
「はい、そうです。1人目ですか?」
「僕は2人目っす。初めてってドキドキっすよね。」
おそらく僕と同い年くらいなのに、なんだこのこなれた感じは。2人目の余裕ってやつか。
「立ち会うんですか?」
どんどん話しかけてきやがる。
まあ、いいけど。
そこに助産師さんがやってきた。
僕か?もう1人の男性か?と一瞬思ったが、もう1人の男性のところへ行き、
「長丁場になるんで、なにか食べ物や飲み物を今のうちに買われたほうがいいかもしれません。」
すると男性は、
「そうっすか。でも買い物行ってる間にオギャーって産まれたりしないっすよね。困りますよハハハハ。」
余裕だな、おい。
余裕の男性はそのまま外へ出て行った。
しばらくすると、また助産師さんが出てきて、「破水ではなかったです。ただ子宮口が3センチ開いています。このまま入院になりますので、一度帰ってください。またご連絡します。」
正直、子宮口3センチがどんなもんなのかよく分かっていなかったが、もともと開いていなかったものが、3センチも開いているわけだから、いよいよなのだろう。一旦帰って、仮眠をとることに。いつ産まれるのだろう。夕方頃に産まれると考えたら、連絡がくるのは昼過ぎだろか。だが、連絡がきても爆睡して気づかなかったなんてことになれば、一生の汚点である。部屋のカーテンを開けて、マナーモードをやめてスマホを枕元に置いて寝た。
ウトウトした頃に、アラームが鳴ったと思ってスマホを見ると、妻からの連絡である。
時間は8時04分。
思った以上に早いぞ。
「お父さんすみません!また連絡がありました!病院まで送ってください!」
その病院の道すがら、お父さんから妻が産まれた当時のエピソードを話してくれた。
陣痛がはじまったであろうお母さんを車に乗せて病院へ向かう道中、切迫詰まって、ありえない一言を言ってしまったとのこと。お父さんのプライバシーのためにも、ここではふせるが、その一言を言ったがために、その時のことをお母さんから一生言われるそうだ。
「ハハハハ、大変ですよ〜」
陽気なお父さんである。その話を聞いた僕は、「お父さん、それはさすがに一生言われます。」
「いや〜記憶にはないんですけどね。
すみませーん!ハハハハ」
陽気なお父さんである。
「たかひろさんも気をつけてくださいね!」
だが、お父さんよく言ってくれた。
人生でもっとも大事な一日になるであろうという輝かしいこの日に、何かミスをすれば、妻に一生死ぬまで恨まれる可能性があるわけである。
私は立ち会いを希望したわけだが、そういう意味でも、大事な大事な一日なのである。
眠いと言っている場合ではない。
病院へ着くと、子宮口が9センチに開いていると助産師さんに告げられる。あんまりピンと来てはいないが、3センチだったものが、9センチになっているわけだから、そりゃ大変に決まっている。
部屋は分娩室ではなく、個室である。部屋の真ん中に3畳ほどの一段高いところに、布団が敷いてあり、妻がそこに横になって寝ている。思ったよりも、まだ楽そうである。
と言うことは、これからが長いということである。
時刻は、8時20分頃。
助産師さんは、つきっきりというわけでなく、要所要所でやってくるといった感じであった。その間、僕が妻のサポートである。
痛み出したら、腰をさするのだ。陣痛はずっと痛むわけではなく、先ほど書いたように、ある程度の感覚をあけながら、痛みがやってくる。痛めば腰をさする。
「そこは背中!!」
「すみません!!」
「もっとゆっくり!!」
「はい!!」
もはや先輩後輩である。
痛みがさらに増しだすと、今度はテニスボールをお尻に当てるのだ。そうすると、多少痛みが和らぐらしい。さらに「水のみた〜い」と言われれば、ペットボトルにストローをさした水を差し出す。そんなことをしていると、あっという間に1時間たっていた。
すると、助産師さんが食事を持ってきてくれた。ここの産院は食事が美味しいで有名らしく、なるほど見た目からして美味しそうであった。
「体力つけなきゃだから、デザートのバナナだけでも食べて、残ったものは旦那さんが食べてください。」
「分かりました。」
カットされたバナナをフォークでさして、妻の口に運び入れる。でも、すぐまた陣痛が始まり、お尻にテニスボールを当てる。
こっちも必死である。必死なのだが、助産師さんがくるたびに、「旦那さん、残ったご飯食べてください」と言うのだ。
だが、妻が苦しんでいる。痛がっている。
その横で、パクパクもぐもぐ、味噌汁じゅるじゅる食べるわけにはいかない。それこそ、
「こっちが陣痛で必死だったのに、1人だけご飯食べてたよね。」
一生言われてしまう。
食べるわけにもいかない。
だが、長丁場。
もちろん、まだご飯なんて食べていない。
それも見越して、助産師さんたちも声をかけてくれているのだろう。
よし、そこまで言うなら食べようか。水だって飲んでいない。一瞬のことだ。ちゃちゃっと食べてしまおう。
「痛ーい!!!」
ダメだダメだ。妻がこれだけ頑張っているのだ。ここで食べるわけにはいかない。
「グ〜」
おい、お腹よ。なんてお前は正直なんだ。
「痛ーい!!」
我慢しろ俺!!!
一時が万事だ。我慢しろ。
そんな時である。助産師さんが「内診でーす」とやってきた。内診のときは、旦那でも近寄れない。パーテーションのようなもので、仕切られる。助産師さんが気を使って小声で、
「今のうちに食べちゃってください」
なんて気遣いのできる助産師さんなのだ。
今のうちに食べよう!
こんな状況でも飯はうまい。だし巻き卵、味噌のポークソテーに白米に味噌汁にカブの漬物。評判以上の美味しさである。
もちろん、パーテーションで仕切られているだけなので、食べてる音は漏れてしまう。細心の注意を払い、音を立てずに食べる。
箸が皿にカチンと当たる音。
もぐもぐ、味噌汁ジュルジュル。
極力音が出ないように食べた。
だが、人生うまくいかないものである。天敵がいた。そいつの名は、
「カブの漬物」
めちゃくちゃデカく、歯応え抜群。
一口食べれば、バリボリ!バリボリ!部屋中に響く。まずい。これは食べちゃダメだ。
だが、、
うまい。
めちゃくちゃうまい。
なんだこのカブの漬物。今までの漬物で一番うまい。もう一口だけ。
バリボリ!バリボリ!
どんだけ響くのだ。
映画館で急に静かなシーンになった時に食べるポップコーン。あれくらい音が響く。
これはまずい。
でも味はうまい。
そうだ。
映画館では、アクションシーンなどの爆破シーンの時、音が響いている時に、ポップコーンを食べてきた。
そうだ、ここだ。
妻が絶叫するタイミングなら、聞こえない。
「痛い痛い痛ーーい!!」
今だ!!
バリボリ!バリボリ!
「痛い痛ーい!!」
バリボリ!バリボリ!
「陣痛おさまった‥‥」
「バリ‥‥」
痛い痛ーい!!
バリボリ!バリボリ!
そんなこんなで食べ終えた。何事もなかったかのように妻の元へかけより、
「そばにいるから安心して。」
そう言ってふたたび腰をさすり始める。
そこからも陣痛は続いた。
助産師さんに言われた。
「これから、赤ちゃんが一番狭い恥骨部分に降りてきます。その時に、お尻にテニスボールを当てていると、手にその振動が伝わってきます。そうなったら、ナースコールで呼んでください。」
お腹ならばそりゃ振動も伝わるだろうが、お尻を押さえてて手に振動なんて伝わるものなのだろうか。そんなふうに思っていると、しばらくすると、「グググ」という振動が伝わってくる。ものすごい力である。
妻の声のボリュームもさらに大きくなる。
「痛いー!!強くおしてー!!」
ぐーっとお尻をおすと、赤ちゃんが必死に産まれようとしてくる力が手に伝わってくる。
妻のボリュームがまた大きくなる。
その妻の叫び声を聞いて助産師さんがやってきた。
「そろそろですかね。」
プロである。
妻の叫び声で判断するのだろう。
「変わりますね。」
助産師さんにお願いをし、僕は妻の枕元に移動した。手を握ると、すごい力で返してくる。
手に爪の跡がつく。
うちわで仰ぐ。
声をかける。
ドラマや映画でよく観るような場面である。
さらに力まなければならないため、最善の体勢をとるのだが、ここからはドラマや映画では観ない状況になった。
妻は仰向けのまま、両手は両膝へ持っていき、顔をへそに近づけるような形になる。
「旦那さんは、奥さんのマクラに両膝を入れて、肩を持ち上げてください。」
言われた通り、両膝をマクラにつっこみ、肩を持ち上げる。腹筋を補助するような形になる。
そこに、いっちょやってやりますか的雰囲気をまといながら、助産師さんが三人増える。
ここまで全員女性だが、最後に男の先生も追加。
1人は右ひざを持ち、1人は左ひざ。2人は正面から赤ちゃんの状態を覗いている状態、先生は横から指示を出す。そして、僕が肩を持ち上げている状態であった。
妻の体の周りにはたくさんの人が集まって、まるでF-1のピット作業である。タイヤ交換、燃料の補給、今にも走り出しそうである。
陣痛は一定のリズムがあり、痛みがきた瞬間に力む。
「あーーー!!」
「声をださない!ださないほうが、力が入ります!目はつぶらない!目をつぶると、顔に力がいっちゃうから目はあけて!」
「んーーーー!!!」
「はい、一旦息を吸ってー」
「すぅーー」
「はい、りきんで!!」
「んーーー!!!」
全員が妻に声をかける。
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「んーーー!!!」
「ちょっと陣痛弱いやつは、見逃してもいいですよ。次、大きいのきそうですね。次でいきましょう。それまで呼吸整えて!」
「ふーふーふー」
僕も声をかける。
「痛いよね。赤ちゃんも頑張ってるよ。呼吸整えて。」
「痛い!痛い!痛い!」
「はい、きたきたきた!きましたよ!はい、力んで!!」
また、妻が両膝に両手をやる。助産師さんが、それぞれの膝を持つ。僕が肩を起こす。
「頭が見えてきましたよ!!」
「んーー!!!あぁーー!!ん!ゔぁぁ!!」
力む声は、まるでエンジン音である。
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
それに合わせて声をかける僕たちもまた、エンジンで動く機械のようだ。
「んーー!!!あぁーー!!ん!ゔぁぁ!!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「んーー!!!あぁーー!!ん!ゔぁぁ!!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「チーム出産」車は走りだそうである。
「んーー!!!あぁーー!!ん!ゔぁぁ!!
ブンブルブルブル!ブーーン」
そのまま産院の壁に突っ込み、壁を粉々にして外に出る。勢いをそのままにさらにスピードを上げて、国道を走り出した。
「ブーブーーン」
「がんばれ」に反応して、スピードがどんどん上がっていく。
コウノトリが車と同じスピードで伴走してくれる。さあ、ゴールはもうすぐである。
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
「がんばれ!」
何度がんばれと言ったことだろう。
何度りきんだことだろう。
何度鼻水をすすったことだろう。
目の前の現実が、全てが夢のような中、真っ赤な顔したベイビーがそこにいた。
なにかで読んだことがある。真っ赤な顔して産まれるから赤ちゃんなのだそう。
そうなんだとその文章を読んだときに納得したのだが、読むと見るとではまるで違う。
それほどまでにその子は真っ赤であった。
オギャー!!オギャーー!オギャーー!!
教科書通りのエンジン音を吹かしていやがる。
時計の針は12時18分を指していた。