嫁実家帰 旦那一人自由飯
とある先輩が言っていた。
かみさんが実家に帰るときは、嬉しそうにしてはいけないらしい。
「なんか嬉しそうだね?」
なんて言われれば、かみさんの機嫌を損ねてしまうわけである。だから、そんなのをおくびにも出さない表情でかみさんを送り出さなければならない。
先日うちのかみさんが、実家に帰った。別にケンカをしたわけでもなんでもなく、実家の方で用事があるから行くだけの話である。
その間僕は一人で過ごすわけだ。
別に仲が悪いわけではない。
仲良くやっている。
しかし、二人で生活していればできないこともあるわけである。つかの間の一人暮らし。好きな時間に起きて、好きなものを食べて、好きなものを見て、そして好きな時間に寝る。普段と違って自由に生活できる。
妻のいない一人暮らしに、嬉しさを感じてなにが悪いのだ。
これは、共働きが多い現代において、女性の方だって同じ気持ちの人も多かろう。旦那がいないこの日は、自由に過ごそうという人もいるはずだ。
それでも、実際にカミさんが実家に帰るときに限って、仕事が立て込んでいたりとうまいこと満喫できないものである。
ところが今回は、いい具合に満喫できる時間を確保することができた。
それでも日中は仕事をした。だけども、この日中仕事をしたというのが意外と大事で、仕事をしたという達成感も加わり、「嫁実家帰 旦那一人自由飯」はより味わい深くなる。
さあ、夜はどうしようかと考えながら、落語をする。せっかくだから、一人だからこそ、食べられる料理がいい。そうなると、おのずと答えは決まってくる。
今夜の晩ごはんは、「キムチ鍋」で決まりだ。
妻は辛いものが苦手である。
そのため、鍋をするにしたって、違う味付けになる。キムチ鍋は二人では食べないのだ。でも、僕が鍋の中で一番好きなのが、キムチ鍋なのだ。しかもこの日は、本格的に冬の寒さになり、コートが必須であった。
そりゃ、いくっきゃねえのだ。
仕事が終わり、最寄駅に到着する。
外は雨が降っている。
手にはキャリーケースと手さげかばんを持って、両手が塞がっている。折りたたみの傘もあるが、もう面倒だ。一刻も早くキムチ鍋を味わいたい。コートのフードを被り、傘もささずにスーパーへ向かった。
キムチ鍋の素、豚肉、鶏肉(普通は入れないか)、白菜、エノキ、しいたけ(僕はしいたけ大好き)、豆腐、ネギのメンバーでお送りします。おっと、ニラも忘れちゃいけない。君がいなくては、キムチ鍋は始まらないよね。そんで、酒。
ビール。
いや、今日はビールはちょっとおもたい。ビール1缶はちょっと多い。メインはキムチ鍋。ガッツリ食べたい。
酒のメンバーは、レモンサワーと角ハイでお送りします。
レジ袋も購入し、それに入れる。
さらに荷物が多くなる。
フードだけを被って、帰路へついた。
キムチ鍋の素を一度に使わずに、半分だけ使って、2日間に分ける。一人暮らしのときは、いつもそうしていた。土鍋に切った具材を入れていき、あとは火にかけるだけ。
火にかける前に、まずはシャワーを浴びて、冷えた体をあたためる。浴室から出て服を着る前に、早く食べたい僕は裸のまま、コンロに火をつけに行く。一人じゃなきゃ、こんなことはできない。
カッチッチッチ、ボッッ!
鍋に火を入れている合間に、服を着たり、ドライヤーで乾かしたり、柔軟体操をやる(いつもの日課である)。
ぐつぐついってきやがった。台所中に、キムチ鍋の香りが充満する。
ニラを後入れして、くたっとなってきた。
完成である。
さあ、はじめるぞ。
「嫁実家帰 旦那一人自由飯」
氷を入れたグラスにレモンサワーを注ぎ込む。一口のむ。仕事をしたという達成感がここで効いてくる。うめえ。
さあ、キムチ鍋をいただこう。おたまですくって、お椀に入れる。まずは、スープから。一口すするだけで、雨で身も心も冷えていたという事実が、忘却の彼方へ消えていく。
TVerで、見逃したドラマを観る。途中で飽きて、違うものに変える。これが妻がいると、なにも言わずにザッピングというのは、なかなかできない。「ちょっとチャンネル変えていい?」となるわけだ。
今日はそんな言葉はない。ただ感情のままに、ザッピング。
早くもレモンサワーを飲みきる。
「ちょっと、飲み過ぎなんじゃない?ここでやめといたら。」
という言葉もなく、ただ欲のまま飲む。
「キムチ鍋も食べ過ぎじゃない。残したら?」
という言葉もない。
欲のまま、キムチ鍋を放り込む。
ご飯も食べる。
酒を飲む。
ただただ、それを繰り返すのみ。
俺は今、欲の暴走機関車だ。
ただ一人で、自由に食べるだけ。それに幸せを感じる。ということはお前、普段家に誰かがいるっていうことじゃねえか。いいことじゃねえか。俺はずっと一人暮らしだから、そんなの感じねえぞ!そう言われれば、確かにそうかもしれない。
だけど、既婚者の僕は、ただ一人で自由で勝手に食べる。それだけで非日常を感じるのだ。
これに共感してくれる人、いや、強く、そう強く共感してくれる人は多いはずである。
その共感が集まるであろうと信じて、今回これを書くことに思い切ったのだ。
妻に読まれても、もういい!共感さえ集まれば、それでいい!だからこそ、書いたのである。