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落語と浮世絵と

落語家の僕は最近、浮世絵にはまっている。

よくジャンルを問わず美術館へ行くのだが、海外の絵の方が見る機会が多く、浮世絵は地味という印象のほうが強かった。

個人的にはいまだに葛飾北斎はそんなに好きじゃない。

きっかけは川瀬巴水という画家である。そこからいろんな浮世絵を観るのだが、浮世絵から醸し出される雰囲気、構図、情景の美しさに惹かれていった。

この間は町田市国際版画美術館へ行ってきた。

町田駅から徒歩15分。最近では西の渋谷と言われるほど、若者の多い街だが、その賑わいとは離れた芹ヶ谷公園の中にその美術館はある。
その日はあいにくの雨だった。公園に入ってから美術館は下にあるため、これでもかというくらい階段を下りる。傘をさしながらだから、なおさら大変だ。

今回の目当てはこれだ。

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江戸、明治、そして大正から昭和という三つの時代に活躍した歌川広重・小林清親・川瀬巴水の三人の作品を展示してある。

僕の目当てはきっかけになった川瀬巴水だが、知名度的には歌川広重だろう。なにかしらで皆さんもその名は聞いたことがあるはずだ。展示をまわりはじめるとやはり面白い。「風景画」で有名な歌川広重だが、そこまでにたどり着くいきさつが解説で書いてあり、興味深かった。

旅行や行楽への関心が広まった江戸後期、役者絵や美人画が好まれていた浮世絵の世界でも、名所や行楽地の「名所絵」の人気が高まりつつあった。そんな中で葛飾北斎の『富嶽三十六景』がヒットする。それをきっかけに広重も本格的に「風景画」に参入したそうだ。結果的に『東海道五拾三次』が成功し、「東海道の絵師」と言われるようになる。

これを読むと、広重も自分の売りはなんなのか、どういう絵を描けばいいのかと悩んでいたのではないか。そして俺は風景画で行こうと決めた時、とても清々しい気持ちだったのではないだろうか。想像がふくらむ。
勝手に今自分はどんな落語をするべきなのかという個人的な悩みと絡めて、今も昔も変わらないんだなと広重の浮世絵を見ながら考えた。

浮世絵を観ると、画家がどんな視点で描けばいいのかと熟考しているのが伝わってくる。
視点の角度を少し変えただけで作品は大きく変わる。
例えば神社を描くにしても、そこには雪が降らせるのか、また雨が降らせるのか。それによりガラリと雰囲気は変わる。
また、夜の神社を描く場合もある。真っ暗闇な夜の神社、また月明かりの神社。それでもまた変わる。
中には月は描かずに月明かりでできた神社や木の影を描き、月が出ていることを連想させるように描いているものもある。
こういったアイディアは観ていて楽しい。

こうして観ていると、落語を作りたくなる。

この間、「正義のヒーロー」という新作を作った。

子どもの頃から正義のヒーローになりたかった主人公。作文で将来の夢を書くときも正義のヒーローになりたいと書く。どんな形であれ正義のヒーローになりたかったが、大人になりひょんなことから遊園地のヒーローショーの悪役になってしまう。子どもができ、子どもにはお父さんは正義のヒーローだよと嘘をついてしまう。
ある日息子が幼稚園の遠足で遊園地に来て、ヒーローショーの見学に。
本番直前にそのことを知る主人公。
自分は悪役、ヒーローに倒される。
だけども、息子の手前、、、                                さあ本番はどうするか‥‥というおはなし。

作ったはいいが、これを一度もやったことはない。しっくりこなかったのだ。
それはこの落語を実際にやるとなると落語らしくないのだ。ちょっとコント色が強い。あまりこれだと落語ならではの味わいや香りがでなすぎると思った。まあ演じ方次第でその人なりの香りを出せばいいのかもしれないが、その力はまだない。

おそらく、浮世絵も近い感覚はあることだろう。

広重を代表とする浮世絵の風景画を見ると、その時代の香りがしてくる。時代が変わり絵の対象が変わってもその時代の香り、浮世絵ならではの味わいが残る。
これはおそらく、作者たちは何を描くのが「浮世絵らしいのか」を考えているからだと思う。
落語らしいもの、浮世絵らしいもの、それにこだわりすぎるのもよくないが、必要なものだと思う。

展示を観ていると、落語と浮世絵の共通点は多かった。
まわり終わった頃には頭が疲れてへろへろで、このあと雨の中階段を上がるのを想像すると、とても気が重い。

だが、こんな雨の日でも展示を見たあとは、風景が違って見える。

これは美術館帰りの特権だといつも思う。

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