向日葵と月見草 第5話
1
一週間が過ぎ、夏祭りの日が訪れた。
愛は約束の場所で公人のことを待っていた。
この日のために精一杯のおしゃれをした。
髪をアップにまとめ、三日間悩んで選んだ白地に朝顔の浴衣。足元は花柄の鼻緒で彩られた下駄を履いている。
正直なところ慣れない格好で、かなり歩き辛いものがあった。だが、それ以上に大きな期待が小さな胸を膨らませていた。
(えへへ……。『可愛い』って言ってくれるといいな……)
「よう、美樹原さん。待った?」
「い、いえ……」
声がした方へ顔を向けると、公人が笑顔で立っていた。Tシャツにジーンズ、スニーカーとラフな格好である。
彼の顔を見ると、いつもどぎまぎしてしまう。はじめて話したあの日からずっとそうである。何日も経つのに、あの時と同じように眩しく見える。
「さ、美樹原さん、行こうか」
「あっ、待って……ください……」
慣れない下駄で足元が痛い。
本音を言うと男性の歩幅に合わせて歩くのは大変だった。
「どうしたの?」
公人が怪訝そうな表情で見つめてくる。
「ご、ごめんなさい……」
焦れば焦るほど愛の動きはぎくしゃくとし、普段通りに歩くのが難しくなる。
彼と肩を並べて歩きたい。
ただそれだけのことがうまく出来なくて、涙目になりそうになった。
「あー、ほら。美樹原さん、歩き辛かったら掴まりなよ」
公人が手を差しのべてくる。あまりにも自然な仕草だったので、愛は反射的にその手に自身の手のひらを重ねていた。
(お願いしてたことが、早くもひとつ叶っちゃった……。あぁ……どうなっちゃうんだろう、私……)
手を繋いで歩く。それだけで頭は早くも沸騰しそうになっていた。
当初は色々な事を話したり、色とりどりの夜店で食べたり遊んだりしたかったが、頭は真っ白だ。
胸の鼓動がうるさくて、公人が喋っていることも聞こえないほどであった。今日の花火を見るためのスペースや、スペースを確保するために長時間並んだ苦労話などを話していたが、殆ど頭に入って来ずにただウンウンと頷いていた。
繋いだ手が、汗でどろどろになりそうだった。
(このまま……時間が止まっちゃえば良いのに……)
そう思っていると、不意に手を離された。
「えっ……あ!?」
「よぉ、来てたのか。こないだは絶対来るもんかって怒ってたのによ」
公人の目線は向こう側に向いていた。その先にいたのは詩織であった。
詩織は白百合をあしらった藍色ストライプ地の浴衣を着ていた。帯は立体的な結び目でお洒落な吉弥結びである。帯には浴衣と同じ柄の団扇を挿している。
ガーリー系にまとめた愛に対し、詩織のファッションは一段階大人びたフェミニンな感じにまとめられており、何より美人でスタイルがいいためファッション誌からそのまま抜け出てきたような華がある。
事実、詩織はただそこにいるだけで衆目を集めていた。
「あなたがどうしても来て欲しそうにしてたから、今日は勉強を切り上げてきたのよ。もう」
「はは、なかなか似合ってるぜ、浴衣。結構可愛いじゃん」
「な……ほ、誉めたって何も出ないわよ」
「し、詩織ちゃん……!」
「めっ、メグも来てたの? もう、駄目よ、こんな奴といたら。騙されて悪い遊びばっかり覚えさせられちゃうわよ?」
「ばっ……オイオイ詩織……。この紳士の俺様がそんな生娘シャブ浸け戦略みたいなことするわけないだろう?」
「シャ、シャブ漬け……!? もう、メグに何てこと言うのっ、あなたはっ! そういうことばっかり言ってるから信頼できないのよっ!」
「まあ、そう言うなって。美樹原さんが見たいって言うからさ、純粋に花火を見に来ただけだよ。な、美樹原さん?」
「は、はい……」
「本当? こいつに変なことされてない?」
「だ、大丈夫だよ。詩織ちゃん。公人さんは私の手をしっかり握ってくれて……優しく支えてくれて……ええと、とにかく、嫌じゃないから……」
「メグがそう言うなら……。まあ、いいわよ」
「ところでよ、花火、もうすぐ始まっちゃうぜ? 予約してる場所、大人二人スペースだけどさ。ま、詰めれば男一人に女子二人くらいいけるだろ」
「そうね、行きましょう」
「ま、美樹原さんはともかく、詩織ははみ出ちまうかもしれないけどな」
「なっ、な、なんですってぇ! 公人っ!」
「あっ……、待って。二人とも……」
公人が一目散に走って逃げる。詩織が下駄の音をカンカン言わせながら走って追いかける。そんな二人を見失わないように、必死な思いをして追いかけた。
鼻緒の付け根、足の親指と人差し指の股のあたりがチクリと痛んでいた。
2
一悶着を経て、三人で所定のスペースへと到着した。公人が準備してくれたブルーシートが敷いてある。
公人を中心に、両サイドにそれぞれ詩織と愛が座るような格好となった。少し窮屈だったが、その分公人との距離が近い。
「場所取り、大変だったでしょ。公人」
反対側から、詩織が言った。
「へへへ、俺様に感謝しなよ。これでも炎天下の中、日中ずーっと並んでたんだからな」
「はいはい、ありがとね。ほら、飲んで。熱中症対策よ」
詩織が水筒から清涼飲料水を注いで公人に手渡す。公人はそれを一息に飲み干した。
「ぷはぁ。サンキュー、詩織。あ、おかわりくれよ」
「もう、ほら……。あんまり飲んでお腹壊しても知らないわよ」
(あっ、これって、間接キス……?)
そんなしょうもないことを考えていた。
「あ……!」
ひときわ大きな音と共に、一発目の花火が上がった。暗い夜空に、色とりどりの火花が放射状に広がって行く。
「きれい……」
「ほら、来て良かったろ……?」
公人の目線は反対側に座る詩織へと向けられていた。
詩織は、ただじっと遠くに輝く夜空を見つめていた。花火の明るさに照らされている為か、ほんのり紅が差したようにも見える。
(公人……さん。ひょっとして、詩織ちゃんのことを……?)
彼の心を覗いてみたかった。
こんな綺麗な横顔を見せられたら、同性の自分だってどきりとしていまいそうだ。
3
単発の花火が何発か上がった後、次第に一発一発の間隔が短くなっていった。遠い空に輝く花火も、赤に黄色に紫と様々な色彩の花弁が複雑に絡み合い、暗い夜空を埋め尽くすほどに広がっている。
爆音が鳴り響くと共に、一際ド派手な花火が上がっていた。
「うわっはぁっ、凄ェっ。明る過ぎて空が黒く見えねえっ! 花火が七分で、夜空が三分くらいに見えるっ!」
「もう公人、子供ねぇ……。あれは登り龍乱れ七変化って言うのよ」
「登り龍乱れ七変化……?」
「このパンフレットに書いてるじゃない? ほら。この花火大会の目玉なのよ」
「へぇ……詩織、よく調べてるじゃん。来たくないとか言ってた割に、よっぽど楽しみにしてたんだな」
「バッ……、バカっ! たまたまよ、たまたま。勉強ばっかりじゃあ息が詰まるって、あなたが言うから……。たまたま区切りの良いところまで終わらせたところで、あなたが何か言ってたのを思い出しただけなんだから」
「へーい、へい。ツンデレどうもご馳走さまです」
「なっ……、公人おっ!」
一見怒っているように見える詩織であったが、その怒りは本気のものではない。耳たぶのあたりが赤く染まり、本当は照れているだけである。付き合いの長い愛にはそれが分かった。
それよりも、先程から愛には気がかりなことがあった。
二人きりのときは緊張してあまり多くの事を話せなかった。詩織と合流できてからは緊張もほぐれ、しかも自然な形で公人と身体を密着させている。僥倖と言ってもいい。
しかし、気づけば会話の殆どは公人と詩織によるもので、愛は時々話を振られるくらいの扱いとなっていた。
本音ではたとえ緊張で何も話せなくても、彼と二人切りで話していたかった。引っ込み思案な自身のキャラクタをこれほどまでに恨めしく思った事はない。
お願い、公人さん。こっちを見て。詩織ちゃんじゃなくて、私を見て。
そんな願いが届くことはなく、愛が感じ取れたのはごつごつした二の腕の温かみだけであった。
登り龍乱れ七変化が一段落すると、夜空が静かになった。どうやら打ち止めのようだ。
「詩織、美樹原さん。花火、どうやら終わりみたいだな。そろそろ帰ろうぜ」
「ええ、そうね」
「はい……」
4
三人並んで帰路に就いた。
花火大会の帰り道は多数の帰宅する客でごった返しとなり、道路は渋滞、駅までの道は何百メートルもの縦列となっており、ほとんど牛歩のような歩みであった。
急いだりする必要が無い分、公人の腕に掴まる理由がなくなってしまったことが少しだけ残念であった。
「メグ、凄い人混みよ。はぐれないように気を付けてね」
「だ、大丈夫だよぉ。詩織ちゃん。子供じゃないんだから……」
「美樹原さんを子供扱いすんなよ、詩織。昔は一人で遠出し過ぎてさ、道端でわんわん泣いてたのはお前だろ? そのたんびにお前の事探して見つけて一緒に家まで帰ってやったよな? 確かそんなことが2回はあったな」
「私は13回あなたを連れ帰ったわよっ! 大体ね、一体十何年前の話をしてるのよ……」
「あ、あの……詩織ちゃん」
「なあに? メグ」
「公人さんと詩織ちゃんって、昔からそんなに仲よかったの……? まるで姉弟みたい……」
「腐れ縁よ、腐れ縁。家が隣同士で、幼稚園から一緒だからね」
「つれない事言うなよぉ、詩織ぃ……」
「バカっ……! もう、メグに誤解されちゃうでしょっ!」
「あっ……、分かれ道だ……」
気づけば目の前にはY字路があった。
「メグはそっちだったわよね。それじゃ、私と公人はこっちだから。気を付けてね。おやすみ、メグ」
「し、詩織ちゃん……。うん、それじゃあ、またね。公人さんも……」
「じゃあ、またな、美樹原さん」
「は、はい。公人さん。また……」
二人と別れ、愛は独り帰路へと就いた。二人並んで暗闇へと吸い込まれてゆく後ろ姿を、いつまでも見守っていた。
5
帰りの道中、愛は最後に公人から言われた『またな』という言葉を反芻していた。
(またな……また……。いつかまた、今度は二人きりで会ったりしたいな……。それよりも今日だって、もっと一緒にいたかったな……)
今日の花火大会、良いか悪いかで言えば間違いなく楽しかった部類に入ると言える。思春期以降で男子と花火大会なんて初めてだ。しかし、嬉しかったはずなのに、楽しかったはずなのに、胸の奥がチクチクと痛んだ。
その理由は明白だった。
彼の中には、いつだって詩織がいる。詩織にしてもそうだ。自分では幼馴染みならではの強固な輪の中に割り込んでゆけないのだ。
去ってゆく二人の後ろ姿を思い出す。
もしも二人が既に恋人同士なのだとしたら、このあと二人きりの会瀬を楽しむのだろうか。公人がさっきのような軽い調子で愛の言葉を囁き、詩織は「しょうがないわね」などと言ってキスに応える。
隣同士なら、その気になればお互いの部屋へ忍び込むのも容易だろう。親の目を盗み、ふたり一緒にベッドに入り、それから━━
肌が粟立つような感覚に包まれ、愛はそれ以上考えるのをやめた。
だが、二人がたとえまだ付き合ったりとかそういった関係になってはいなくとも、そうなるのは時間の問題のように思えた。
だが、この胸の底から沸き起こるどうしようもない気持ちを止めることはできなかった。そんな自分に驚き、戸惑いながらも否定することが出来ない。
愛は詩織に対し嫉妬している自分自身を自覚した。そんな資格は自分には無いことはよく分かっている。二人は愛が詩織と知り合うより前からの付き合いだし、何より、詩織と付き合えるというのにあえて愛を選ぶような男子はなかなか居ないであろう。その程度の客観性は持ち合わせているつもりだ。
そして残酷なことに、詩織には決して悪気が無い。それは誰よりもよく分かる。
親友の眩いばかりの無邪気さと健康さに、生まれて初めて密かな敵意を覚えたのであった。