見出し画像

『だまされ屋さん』


2022年の5紙制覇本

2022年に全国5紙(読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞、産経新聞)すべてに書評が掲載された書籍2冊のうちの1冊です。もう1冊は『ハレム』。

<正しさ>をめぐる家族の群像・相克劇

「アイデンティティー・ポリティクス」や「トライバリズム」(部族主義)という言葉が、社会に相互理解よりも分断をもたらすという文脈で、欧米社会では語られることが多くなりました。

同じ国民、同じ市民、同じ住民という共通する部分への対応よりも、性別や肌の色や性愛の指向や出身国などによる差異を埋めることを優先するよう、社会や政治に求める動きです。

日本でもそのような動きがSNSを中心に盛んになっています。LGBTQ、同性婚、フェミニズム、外国人排除や少数民族問題、どれをとっても、これほど激しい論争と分断を生んでいるのは、ここ10年程度のことだと思います。

この意味で、本書はすぐれて現代的といえると思います。2022年に全国5紙すべてに書評が掲載された理由がわかる気がします。

群像・相克劇の中心にいるのは、秋代です。2男1女を育て、夫に先立たれ、一人で暮らしています。成人してそれぞれ家族もできた3人の子供たちとは親子の縁が切れています。そんな寂しい老女のもとに、一人の闖入者(未彩人)が現れるところから物語は始まります。

未彩人は、シングルマザーの長女・巴の家族事情に詳しく、秋代にお母さんと呼ばせてくれと迫り、家族になりたいといって秋代の度肝を抜きます。この未彩人の正体探しが、小説を貫く縦糸です。

横糸として、各家族の事情が語られます。「1秋代」、「2優志」、「3秋代」、「4月美」といった具合に人名ごとに章立てがなされます。

そして、どの家族も、アイデンティティーに絡む深刻な問題を抱えているのです。

長男・優志(やさし)の事実婚の妻・梨花は、韓国籍です。優志は常に梨花の立場に配慮して生きてきたのですが、それが逆に、梨花には疎ましいのです。ついにこう言って爆発してしまいます。

ヤッシが私になりきって私を理解してくれようとしていることは、よくわかっている。それはすごく嬉しいことだし、感謝してる。でも、最近は、私を追い越して私になってる。ヤッシが私になりきることに、自信満々でいる

梨花は感情が止まらなくなり、優志が事実婚にしたことも、子供を作らないと決めたことも、在日が多いところに新居を構えたことも、梨花になりきって一方的に決めたことだと非難します。そうすることで梨花に対する優位を保ってきた、と責め立てるのです。

長女の巴はアメリカ留学中にプエルトリコ人と結婚します。妊娠中に暴力をふるわれたことで離縁し、娘の紗良と日本に戻って暮らしています。紗良は父親の肌の色を引き継いでいて、日本での学校生活になじむのに苦労しました。

次男・春好はスマホゲームなどにおぼれて借金漬けになっています。その妻の月美は、不甲斐ない夫を育てた秋代に、「製造責任者」としての責任を取って欲しいと言い募ります。

秋代は、子どもたちとの思い出が詰まった自宅を売り払って、春好の借金を肩代わりしますが、この資金支援をめぐって優志、巴と疎遠になります。一方で、春好に対しては、これ以上の甘えを許さないため、秋代の方から関係を断ってしまうのでした。

秋代と3人の子供たちの関係も、子供たちのとそれぞれの家族の関係も、社会的な<正しさ>の周りをぐるぐると回転していきます。

私的な空間が社会に飲み込まれる

そこで思い浮かべたのが、現代リベラリズムの始祖である哲学者のジョン・ロールズです。

ロールズは、リベラルな社会が成立するための「正義の二原理」を定式化しましたが、家族にはその原理を直接は適用しなかったのです。家族は私的な空間であり、各々の家庭にふさわしい内部生活のために、正義原理の適用が制限されると考えたのですね。

扶養される子どもの立場に立つと、社会は家族の外部にある存在です。また、家族は社会から成員を守るシェルターのようなものでもある。親の子育てや教育(それが極端なものであれ)に、社会は介入できない。私的空間とはそういう意味です。

ところが最近では日本でも、社会が家族に介入すべきという言説が増えてきました。児童虐待にしても宗教二世への問題にしても、その責任は親だけではなく、児童相談所や警察や文科省に問われるようになっています。社会的な<正しさ>が、権力を伴って私的空間に入り込んでくるのを、世論も支持しているように見えます。

そうした中で、家族同士の会話さえ、社会的な<正しさ>が軸になっていく。筆者の星野さんがそれを意図したかどうかまではわかりませんが、秋代とその家族たちの、時には火の出るような会話の応酬からは、そうしたことを感じるのです。

特に長男の優志は、正しさに取りつかれたように映ります。子供のころの優志は長男として、障碍児だった春好を抱える秋代の負担を軽くするよう協力し、巴の面倒もしっかり見ます。優等生で頼りがいのある長男だったのです。

その優志は長じて、相手の社会的な立場を理解し、相手と同一化することによって、関係を作る人間になります。そしてついには、梨花に「自分以上に自分に成りきっている」と反発されるのです。

それは恐らく、正しい家族のあり方ではないのです。

「迷惑」かけても「だまされて」もいい

家族はどうやってもう一度家族になれるのでしょうか。

小説では、未彩人ともう一人の謎の人物、夕海が、秋代と子供たちをもう一度、つなぎ直す役割を果たすことになります。未彩人と夕海が何者で、どうやってその役割を果たしたかは、小説を読んでもらうしかありませんが、驚くべき魔法を使ったわけではありません。

キーワードは「迷惑」と「だまされる」だと思います。

「迷惑」という単語は、全編を通じて26回出てきますが、このうち18回は、第三章に当たる「3秋代」の章に登場します。未彩人はこの章で、秋代に対して、以下のように述べるのです。

「はは、確かに秋代さんには迷惑かけています。だから、秋代さんももっとぼくに迷惑かけてください」

「でもね、ぼくがかけ合いたい迷惑は、楽しくなるための迷惑なんです。その迷惑が普通になれば、みんな気楽になれるような迷惑なんです。迷惑だ、って感じるのは、お互いに距離が近くて鬱陶しいからでしょ? 相手を遠ざけちゃう迷惑は、たんに人間関係の終わりですよ。家族の終わりとか。寂しいじゃないですか」

「はいはい、ぼくに迷惑かけていいチケット、百枚ぐらい貯まってますよ。いっぺんにでかい迷惑かけてもらっても全然平気」

「ずっと一人なんでしょ。問題はむしろそっちですよ。昨日も言ったじゃないですか、迷惑は一人じゃなくなるためにかけ合うんだって」

それぞれのセリフの中で、秋代も、優志も、巴も、春好も、家族に迷惑をかけてはいけないと考えながら生きてきたことが明かされます。しかし、未彩人は迷惑をかけていいという。迷惑をかけていいのが家族なのです。

「だまされる」については、「10.秋代」の中で、夕海が次のように述べています。

「私の持論からすると、だまされてない人なんて、誰もいないんだと思います。誰もが互いに程度の差はあれ、ちょっとずつだまし合ってる。私は母にだまされてたし、だまされてることもわかっていたけど、心にロック掛かってどうにもできなかった。(略)
一番悪いのは、だまされてることを受け入れない、というか。そう、だまされてるのに、だまされてないって思い込むことが、厄介なんです。うすうすとでも、自分はこんなだまされ方をしてるって気づいていれば、少しだけ安全地帯ができると思うんです」

お互いに迷惑もかけるし、だましもするけれども、それも承知で維持していく関係が家族ということなのかと思います。家族の関係は契約ではありません。守られなければペナルティを与えるような原理では成り立っていないのです。

作品中、秋代が優志たちに反論する場面があります。

「そうね。あんたたちに責任はない。でも、これだけはわかってほしいのは、私は自分のことに必死だったんじゃなくて、私以外のことに必死だったんだよ。あんたのことが見えてなかったのは、子どものことでいっぱいいっぱいで、ああするしかなかったのよ。だから仕方なかったってことだけは、わかってほしいの」

秋代にしてみれば、今になって責められても、何が悪かったのか、どこで間違ったのか、さっぱりわからないのでしょう。それは、時代のギャップなのかもしれません。

突然ですが、1984年封切りの映画『麻雀放浪記』では、鹿賀丈史演じるばくち打ちの「ドサ健」が、大竹しのぶ扮する恋人のまゆみを女衒に売った金で、一世一代の勝負をします。この時「ドサ健」が言った

「あいつは俺の女だ、この世でたった一人の俺の女だ、だからアイツは俺のために生きなきゃなんねぇ、俺は死んだってテメェに甘ったれやしねぇがアイツだけには違うんだ、アイツと死んだお袋と、この二人だけには迷惑かけたってかまわねぇんだ・・わかるか?」

という有名なセリフを思い出します。

このセリフを今の映画で使ったら、観客はどう受け止めるでしょうか。この40年ほどでも、我々の家族観は大きく変わったのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?