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ふつふつと消えず燃えるもの

友達と長電話をしていたとき、いつものように人生における愛の話になった。

人間誰しも愛妻家であるべきだよね、と溢してふと思う。


「愛妻家」はあるのにどうして「愛夫家」はないのか


久々に気づいてしまった、だから言い続ける。ムカつく。超ムカつく。

なんで「愛妻家」という言葉がないんだろうと考えたときに、「女が男を愛するのが当たり前で、男が女を大切にするのは珍しいからなんじゃないか?」と思った。

こういう考えが思いついたのは育ってきた家庭環境があまりにも家父長制で自分がひねくれているからこんな思考回路になったのだろうと自虐しようとしたら、友人が「いや、そうなんじゃない?」と一言。

加えて「恐妻家」という言葉もある。これも、「女は男に対して優しく、怒らず、反抗しない従順な姿勢であることが当たり前で、女が男に歯向かう、ましてや女のほうがパワーバランスが重いなんて珍しい」ということだろう。


日本の中にある当たり前の概念、言葉の中に隠された男尊女卑の思想にゾッとした。
こうして言葉から我々の思考はおのずと構築されるのだとしたら、この言葉を使い続けることを許す日本社会が怖い。差別や格差は当たり前の日常に潜んでいるから気づきにくい。だからこそ私は声を上げる。これは当たり前ではない。このもやもやをずっと持ち続ける。ひとりでも誰かが自分と同じ目に合わないように、そしてもう二度と自分が苦しい思いをしないように。

なんか、こんな強い言葉を使っていると世の男性全員が敵と思われるかもしれないが、そういうことじゃない。家父長制を良しとする政治やシステム、ルールに抗っている。男性が強く、女性はそのケアをという世界は、みんなが苦しい。男性が苦しんでいるのはそのシステムのせいで、だからお互いに手を取り合って世界を、性別による差別や抑圧を変えていこうよというのがフェミニズムだ。決して男性を敵対視しているのではない。フェミニズムはみんなのものだ。

だから私は声を上げない方が楽だからとか、みんな我慢してるからとか、これが普通だからって今の社会に迎合しないし流されない。当事者のひとりとして、筋が通らない社会に声を上げる。

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